「表現の自由」に寄せて

 恫喝、脅迫、匿名で言いたいこと言う、これらは全てクソだと思う。間違いなく。それに屈してはいけなかった。「表現の自由」は必ず守られなければならない。そこに権力が介入してはいけない。色んな視点、考え、価値観が提示されてそれを吟味する権利が国民にはある。その場をなくしてはいけない。

 

 パブリックアート、地域芸術祭はそもそも大変だろうね。公共、地域の事を思って、作家は表現しなくちゃならない。アートが本来持っている攻撃性、つまり見る者が己の価値観を破壊され、新しい視界を獲得して呆然と立ち尽くしてしまう、そういう革新的な役割を踏まえるなら、パブリックアートや地域芸術祭はやりづらい。いやいや、そんな攻撃的とかっていうんじゃなくて、地域社会が活性化されるエンタメがやれればいいんだ、っていうならそれはそれでいいけど。今回は非常に難しい土俵で攻めてしまったんだなぁ。「表現の自由」はどうやって守られていくのか。それを考えるいい機会になったよ。

 

 地域芸術祭、なんでやりたがるんだ?って素朴な疑問がずっとある。3年に1回やってどうすんの。毎日芸術と向き合う機会が欲しい。いつでも芸術の役割を確認する生活を、市井の皆々が持つあり方が大事だと思うのだがね。日常の機微の中にあらゆる思索が潜んでいて、アートはそれを掬い取り想像力を拡大してくれる。おれが住んでいる所にも地域芸術祭ってあるんだけど、例えばそんなんじゃなくて現代美術館を建てた方がいいんじゃないかって言ってた人もいたけど。おれも賛成だよ。いつでも誰でもアートと禅問答すればいい。おれも一部の音楽や絵画、映画、漫画、人、その他多くの大衆性とは逆の圧倒的なものに打ちのめされ、学び今日まで来てるよ。それは3年に1回じゃなくて、予測不可能に出会う。

 

 いっぱしアート街道歩いてきた人間の出世最終地点が芸術祭っていうなら、はっきりいってそういう考えの人間には興味がない。

 

 おれはいつも個の力を信じている。そもそも大衆性に迎合しない。別にアートと呼ばなくてもいいけど、相手の心深~く傷を付け、もうそれまでの常識には戻れなくなるような、そういう作品を産み落とし続けられるかどうかしか考えていない。おれもそういうものに育てられてきたから。

 

 「文化庁は文化を殺すな」著名したよ。お金入って、別な形でいいからもう一度作品たちが価値観を吟味する俎上に乗っかればいいね。