写楽との遭遇-バラッバラの個性たち-

 数年前に写楽の実寸大で掲載されている画集を手に取った。もちろんそれは写楽との初めての出会いではない。彼は言わずと知れた世界的に有名な絵師である。おそらく葛飾北斎と同じくらい。写楽の役者絵は何かにつけ世間でよく使われる。日本的、歌舞伎のヴィジュアル、粋な風情など。そのイメージは一番有名な大谷鬼次の奴江戸兵をはじめとして世に氾濫している。だからよく知った絵である。きっと日本人はもとより世界の多くの方がそうだと思う。しかし、数年前に写楽の画集を開いたときは自分の肉体に戦慄が走ったのだ。今でも鮮明に覚えている。それはまごうことなき初めての出会いと形容したくなるような写楽大首絵との遭遇であった。

 

 「おいおい! 君たちは一体何者なんだ!」私は画集のページをめくるたびにそう問いかけた。やがて、画集の中盤から終盤にかけて一気にその心の驚愕は消え失せる。私をうろたえさせたのは、写楽初期の大首絵だけであった。その大首絵シリーズだけが異様な存在感を放っていた。そこに描かれている者たちは歌舞伎役者ではなかった。もっと別の、どこか知らない土地の異人種か異惑星の人類種か何かを思わせる集団。歌舞伎役者であるという既成の概念や人物名は私の頭から完全に削除されていた。こんなに有名で万人に見つくされたイメージの中にまったく新しい別の存在を見てしまうことがあるものなのかとその時は驚いた。

 

 ニーチェという近代の哲学者がいる。彼が独創性というものについてこのように語っている。「独創性とは何か。万人の目の前にありながら、まだ名前を持たず、まだ呼ばれたことのないものを見る事である。」独創的であること。これは絵を描くことにおいて最も重要な要素であると私は思って画業に取り組んできた。その独創性とは未知のものを描くことであり、他のどの画家も描かなかった表象をメディアに表すことだと思ってきた。しかし、写楽との出会いがその考え方を変えてしまった。ニーチェが言葉に残したように最も世に溢れたイメージから全く新しい形容しがたい存在を見てしまったのだ。写楽おそるべしである。

 

 現代の絵師として心に火が付かないはずはない。素性がほとんど分からないといわれている写楽という絵師の懐に入り込んでみたいというモチベーションが沸き上がった。そこで、これまでオリジナルにこだわってきた自己を否定して写楽オマージュに取り組んだのである。写楽大首絵単体描写23体を自分のセンスによるドローイングで描き変えた。自分が感じた写楽大首絵に宿る、まだ素性を特定されていない虚構性を増幅させることが出来ればと思っていた。23体描き終えても写楽という絵師の本質は以前霧隠れのままであったが、大首絵の人物たちとは生々しいインタラクティブな会話をしたと思っている。

 

 写楽の大首絵人物群は表情豊かである。顔は以上にでかく手は妙にいびつである。しかし他の絵師の大首絵に見られるような様式美的な綺麗さとは全く違う魅力を放っている。ここに例えば「個性」という性質を見ることが出来る。しかし、ここでいう「個性」とは自分らしさ・自分にしかないもの・他者とは区別される固有性といった、おそらく一般的に認識されている性質ではない。写楽の人物群に感じたもの、そして自分がオマージュで表現したかったものとは何か。それは、それぞれの人物が各々のモチベーションで勝手気ままにあろうとする姿である。決してそこには他と区別される自分にしかない死守すべき特性といった所を拠り所にした個性なるものではない。他者と区別を図って勝ち取る自分らしさではなく、こうやりたいこうしたいと思うがままに振る舞う果てに立ち現われるその人の存在感といったものだ。科学的というか理屈で自分と他者、人間と機械、有機物と無機物といった二分法の概念を明確に区別する思考ではない。もっと自然に発生してくる存在感とでもいうか、内在するリアリティといった感じだろうか。私がオマージュして登場させた人物群は皆一様に派手ないでたちである。その均質性の故に突出したビジュアル的個性というものは実はない。しかし、皆それぞれ思い思いの振る舞いをしている。一体何目的でそのような体裁をしているのか。モチベーションのベクトルはバラバラだ。つまり、共通の理想を共有してその一点に近づくために競争激しく個を確立するといった態度はない。そうではなく存在の多様性である。写楽の大首絵にはそういう、気負いのない個性が宿っている。それが私が数年前に写楽の画集を開いて遭遇したリアリズムであった。

 スマホは現代人の生活インフラだ。あらゆることを可能にしてくれる。例えばの話。スマホの改良の果てに、究極的にはスマホを持たなくてもよくなったらどうなるか?どこまでも小さく軽量化されるのではない。なくなるのだ。であるならどう代用されるのか?それは我々人間がスマホになるのだ。もしそうなったと仮定したらどうだろう。誰もがスーパーヒューマンである。テレパシーがメールや電話の代わりになるのか、はたまた街中どこでもデバイスいらずでインターネットである。そんな未来人に技能や身体的差異の固有性というものはなくなるのではないか。均質化された人間性の中でとる行動とは、もはやそれぞれがスキルインフラを生かして思い思いにモチベーションが上がる方向へ何かを実行していくことである。これこそが多様性である。

 

 写楽大首絵はそんな多様性社会における存在のリアリティを宿している。まるで八百万のなんとやらだ。みんなバラバラで一つの基準に即した役回り・キャラの当てはめはない。

 

 東洲斎写楽。その存在の謎感とは裏腹に作品はビビッドだ!

 

ー現代の絵師・藤谷康晴akaドローイングマン