フェイクタウンフィジカルグラフィティに想像する未来

 2017年が明けて一か月。今という時間が時代の最前線である。私が生まれた1981年から36年が経つが、ここから見える風景はほとんど変わり映えがない。そんな景色の中で今も変わらず立ち続けている者がいる。灰色の案山子。電信柱だ。柱も電線も地中に埋められて視界が開けた風景は未だやってこない。子供のころはよくこいつに隠れたり落書きしたりしたものだ。無邪気に遊んでいた。電柱のことを一個の他者として意識するわけでもなく、都合よく使ってはしゃいでいたわけだ。子供は遊びの天才。しかしある時からこの仏頂面の棒さんを実存の物体として意識するようになった。自分自身と社会を意識するようになった頃と時を同じくする。なぜお前はそこにいるのか?そこに突っ立っているのか?札幌のどこへ行っても存在し、国内のほかの土地に行ってもその風景は変わらない。もちろん送電線を渡す役目を負っていることは分かっているが、その目的以上に地面に刺さる姿そのものに電柱の存在のすべてを見るようだ。彼らはもはや日本の都市の風景に相応しい役者であり、彼らこそ私たちの生活圏の住人なのだ。時として想像することがある。ある別の惑星に移住し、そこからかつて生活していた青い星の土地のことを思い出す。あの町の生活風景を。その景色の匂いや色、形といった記憶を呼び起こすシンボルとして心の中心に一本の電柱が屹立している。それぐらいこの電柱とやらは私の心象風景のようなものとして大きな存在を占めている。2017年今現在も送電線が空を覆う世界の底辺で活動し生きている。だが今は電柱に隠れて無邪気に遊ぶ子供ではない。無数の電気信号が空気中を埋め尽くす密度で飛び交う世界を、目線を急がせながらうまく立ち回る狂った歌舞伎役者のごとくである。テクノロジーは世界を前へ前へと推し進めていく。

 

 人類の手によって誕生したロボットが人間のように自我に目覚め感情を持つようになり、やがて自らの自由を獲得するために人類に抵抗し、果てには人類はロボットに支配されてしまう…。このような近未来世界の最後が数多の小説やら漫画やら映画などで描かれてきた。昨今、人工知能が一種のムーブメントを起こしている。深層学習で人間のように複数の事・作業を行える汎用AIが生まれ、それを搭載されたロボットがいずれ誕生するであろうといわれている。人工知能が人間の能力を超える一つの到達点であるシンギュラリティ(技術的特異点)が2045年には訪れるといった考察も出ている。テクノロジーの門外漢である私にはこの予測がどれだけの信憑性を秘めているのかは判るはずもない。がしかし、これから先このテクノロジーの進化は確実にその一点に向かって線を描いていくことになるはずだ。第一次産業革命からテクノロジーの発展が途中で止まることはなかった。あらゆる批判、懸念、負の側面を議論されながらもそれは着実に進歩し我々の生活の中にイノベーションを起こしてきた。果たして汎用AIロボットが人類を破滅へと導く未来がやって来るのか、それとも人知を超えた知能は人間と手を取り合って豊かな未来を描き出すのであろうか。

 

 多くのロボットが様々な分野の仕事に参入されるようになると、我々の仕事は奪われやがて多くの人々が失業することになる。ロボットが人間にとって代わることで仕事は効率化し、ロボットの維持費が人件費を下回れば経費削減にもなる。分野によってはより高い安全性も確保される(完全自動運転車の方が人間の運転より事故発生率が少ない)。人工知能に仕事をとって変わられた我々はどうすればいいのか?ベーシックインカム(政府がすべての国民に対して最低限の生活に必要なお金を無条件で支給する制度)が導入されこの問題は解決するであろうといわれている。一方でブロックチェーンが我々の生活のプライバシーを守り生活のコストを削減させるといわれてる。物事のやり取りにおいて、情報を管理し信用を保証する仲介としての第三者が必要でなくなるこのブロックチェーンという仕組みが、個人対個人の直接のやり取りを可能にさせる。そうなると間に入る存在に個人情報を提供する必要がなくなりプライバシーは守られ、かつ例えば仮想通貨のような手数料がほとんどかからないやり取りが世界中で可能となる。このように我々の生活スタイルは大きく変わり、労働時間が大幅に削減されるとその分だけ多くの自由な時間が生まれるだろうと目論まれている。さて我々はこの時間をどう生きるのか?

 

 人は自分の尊厳が保たれて初めて生きている喜びを得る生き物だと思う。例えば先に述べたようにベーシックインカムが最低限の生活を保証したとして、我々はここに一つの保険を獲得する。つまり、より多くの人が多少ともリスクのあるやりたいことを行動に移すことが容易になる。例え失敗しても最低限の生活は保障されているわけだ。頭の片隅に宿している密かな企て、平凡な生活を送りながらもひっそりと夢見る風景・未来・誰かの役に立ちたいという気持ちetc…。やりたいことがない、夢は特にないと人前で言っている人でも必ず何かしらの想像・妄想をして夢見たことはあるはずだ。ほとんどの人が実現するはずがないと鼻で笑って忘れ去ろうとする。みな生活することで精いっぱいだ。しかし、どんなバカげた夢や企みも行動に移してみる価値はある。やりたいこととは将来就く仕事の種類のことではない。この目で見てみたい夢のことなのだ。そんな行動力をより前向きに起こさせる環境が生まれるであろう。個人同士が直に関わり、企画遂行の資金などは共感・信用を生めば誰かが出資する(今現在だってクラウドファンディングがすでに方々で行われている)。夢を実現する上での一つ一つの専門的スキルがなければそれを可能とする人を誘えばよい。こうやって個人個人が連携して、今まで墓場まで持っていこうとしていた無名の我々の突拍子もなかったりするような夢が実現することは大いにあり得る。それが当たり前になる。誰もが企画者になり得るわけだ。少なからぬ共感者を巻き込み実現されればそれは当事者にとって生きる喜びであり、尊厳の獲得になる。ロボットが人間の仕事を代行し、人間に多くの時間がもたらされ、我々はこの時間を人間の尊厳・生きがいを取り戻すことに充てるのだ。産業が発達する前、人間は自然界のあらゆるものに神秘性を見出し、畏れながらも感動し知性で交流していた。その原初的人間の生き様・生きている喜び、つまりは生に対する祝祭を、産業が発達した先のテクノロジーが人類に再びもたらしてくれるという現象が起こり得るのではないかという一つの希望のようなものを私は未来への思いに灯している。みんながそれぞれ自発的に生きがいを求め行動し祝祭を謳歌しようとするとき、アート・芸術といわれる正体不明の怪物はその姿を詳らかにされ、誰もがそれと向き合っていることだろう。もはやそうなるとアートいう言葉は消滅しているのかもしれない。

 

 2017年、私は電気信号が無数に飛び交う中をよろめき見栄を切りながらも、電柱越しにフェイクタウンというマモノたちがはしゃぎまわる祝際にあふれた町の蜃気楼を夢見ている。そう、今はまだ幻のフェイクタウンフィジカルグラフィティを。

 

 ー2017年1月 ドローイングマン