いめうとかのなんにもない展@ギャラリー犬養

 

DMに惹かれて会場に足を運んだ。わかりやすく言えばポップな絵であるが、アニメ・イラスト・アングラ・オタク文化の中で見るような形式化されたタッチとは違う描かれ方が、少し気になった。趣味に安住した活動とはちょっとずれた感覚と勢いが感じられた。

 

 

気になる所.

 

 きれいに丁寧に制作されている。段ボールをメインに支持体として使っているが、日常にある本来絵には使用しないものを使って雑に仕上げてはいない。大竹伸朗は日常のありふれたものをありのままの(手を加え狙わない)エモさでピックアップする。日常のもの・使用されたもののボロさを借用してアートの肩書を与えてこれもアートだよと見せる作家は吐いて捨てるほどいる。いめうとかさんは作品・商品としては強度の弱い段ボールというものを使っているが、きれいに仕上げている。会場にはたくさんタイプの違う作品がある。個展としてとっ散らかっていたりしても丁寧な仕事ぶりを見せる。狭い趣味に寄ってポーズを決めるのでもなく、カオスを演出したり、アートの常識をかく乱させようとするのでもない。色々まとまらないのだけれど、丁寧に制作する。だから惹かれたのである。

 

 

気になる所.

 

 どの人物も口が描かれない。ただ、嘔吐をしている時だけは口が描かれる。作家本人は口を描きたくないとおっしゃっていた。本展のアーティストステイトメントには、日々の中で感情の底には何もない、その何にもない所から生まれてくるものもあるとして作品たちを位置づけているという趣旨が書かれている。嘔吐は食べたものがあって吐き出される。何もない体内からは出てこない。嘔吐する時は苦しい。創作と同じである。インプットしてアウトプットされる。その行為は大体にして生みの苦しみを伴う。作家は何もないと言うが、本人が日々の生活の中で吸収してきたものがインスピレーションとなって作品たちは生れ落ちているのだと思う。口を描かずにおくとは、創作の種明かしを隠す無意識の行為なのかもしれない。なんにもない所から作品は生まれるのであると。しかし、それだけではないような感じがする。アートするために必要な、寄って立つ文脈・コンテクストが自分の中に存在していないことを自覚してしまっているのかもしれない。文脈を言い換えるなら社会性とでも言おうか。日本のアートはおよそ社会性が生まれにくい。西洋のアートと違い、職人の国であったし江戸になると庶民文化を反映した浮世絵が発達した。半ば無理やり西洋のアートを輸入してしまったがために混乱の今がある。我々が美術・カルチャーに触れる最初の扉と言えば漫画やゲーム、映画、音楽などのサブカルチャーである。ほとんどそこからしか表現を出発出来ない。いめうとかさんはそれを理解していて、なにもない所から生れ落ちる作品たちと認識しているのではないか。でも彼女が生きてきた中で吸収してきたカルチャーはあるはずで、それは創作に反映されているに違いない。だから本当はなにかある所から作品が生まれている事を知っている。でも、なんにもないと言いたい。日本のアートの実情に気づいているから。

 

いめうとかさんは丁寧に作品を作られる。会場には、段ボールで作ったお面やまな板に絵を描いた作品、布のコラージュでキャラクターの顔を作ったもの、漫画の原稿、それからお面を被った作家本人の写真、バッジなどの小物まであった。浮世絵はうちわや絵馬、かるた、羽子板などにも描かれた。どれもデザイン性は高く丁寧な仕事である。いめうとかさんの作品は日本の芸術を顧みれば実に納得してしまう所がある。西洋のアートと日本の芸術文化の性質の違いの狭間でさまよう日本において、彼女は自分の思うがままに作品を制作し続けている。本来的にはそれは正しいのである。

 

いめうとかのなんにもない展2018.10.17(水)~10.29(月)@ギャラリー犬養


師井公二展「運命の糸/男と女」@GALLERY創

 線が軽やかに歩んでいく。まるで重力を感じさせないような軽さを、目を通して感じられる。師井さんの作品に張り付けられた糸は軽快だ。どこからかやってきて円を描きまた向こう側へ去っていく。支持体の上を楽しむように一周駆け回って画面から消えるのだ。なぜこのような軽やかさを感じるのだろうか?

 

 糸が張り付けられた平面画は、アクリル絵の具で着彩されたたくさんのマスが集合して出来上がっている。マス同士の柄は全てばらばらで、隣同士が繋がっていない。なので大きな一枚の紙の上に施された表象が、一定の形の矩形に断裁され、それらを再構成したようなコラージュとなっている。コラージュは、現代芸術の中で生まれた技法である。師井さんが活動拠点としているフランスでは、コラージュに特化された美術館やコラージュ芸術家の機関があるなど特別な表現技法であるらしい。ピカソやブラック、シュールレアリストの画家たちが、繋がりのある物質や意味・ロジックをバラバラにして、世界に対する新しい視点を生み出すために始めた技法だ。本展の師井さんの作品群もこのコラージュが基本となっている。この技法によって繋がりを断絶された平面の上に一続きの線・糸を配置する事が、糸に不思議な軽やかさを生み出しているのであろう。解体され混沌とした空間の中で優雅に弧を描きながら現れる線、まるでバラバラになった時空を泳いでいるかのようである。デジタルな世界をアナログな足取りで歩んでいくような印象である。

 

 師井さんのコラージュは全く違うものをサイズもバラバラに繋げている感じではなく、同じ大きさの矩形を規則正しく繋げたものになっている。それは市松模様のようである。市松模様は写楽大首絵にも描かれている江戸の歌舞伎役者・佐野川市松が着ていた格子模様の袴が人気を博した所から来ている。石畳のようなこの模様は江戸以前から織模様として多用されてきた。日本人にはある種の規則性を持った幾何学模様を好む感覚があるのかもしれない。格子窓などもそうだ。師井さんはフランスで長く活動されているので、フランスのコラージュ技法と日本の市松模様的美学が彼の中で共存しているのかもしれない。本展で床に配置されたキューブ状の作品はまさに、ルービックキューブのような幾何学的模様の立体である。この規則性をもった配置と、糸が描く決して真円にはならないゆらゆらと遊ぶような軌跡の対比もまた、糸の軽やかさを強調させているのではないだろうか。

 

 師井さんの線が醸し出す遊び心は「lombre」と書かれた陰という作品と、「Detour」と書かれた回り道という作品によく現れている。「lombre」は書がしたためられた紙を断裁してバラバラに再構成した支持体の上に赤い糸が走る。影遊びとでも言いたくなるような作品。また「Detour」はパリの地図を断裁してバラバラに繋ぎ合わせた支持体の上を、黒い糸が移動する。地図はバラバラなので、隣り合わない地点から地点へ糸は繋がった一本の軌跡を描く。地下鉄に乗ってある地点からある地点へ移動するみたいな感じだろうか?いや、もっと瞬間的に自由自在に動いている感じがする。

 

 

 施された一本の糸がよい。この連続した一続きの線が妙に納得させられる。世界の情報に瞬時にアクセスできる現代、このデジタル化された環境はますます発達していくであろう。我々はこの空間の中を生身の体で変わらず生きていく。人間自身がスマホになる事はなく、あくまで環境がデジタル搭載になっていく。スマホが不要になる時代が仮に来た時、我々は師井さんの作品のように時空がバラバラの世界を優雅に弧を描きながら生きているのかもしれない。平面上のイリュージョン。非合理的遊び心を持った東洋的精神も感じられる作品世界である。

 

師井公二展「運命の糸/男と女」2018.10.3(水)~10.14(日)@GALLERY創(札幌)


梅田力個展「余白の感触」@さいとうgallery(札幌)

 

会場奥、左の空間に展示された作品の前に佇む。単体の作品が複数展示されているのだが、やはりこの作品に目が行ってしまう。白い平面の台の上に2体の黒い作品が中心を開けて立つ。阿吽像や風神雷神のような日本的アンシンメトリー対構造のビジュアルテンプレートにしっくりはまり込んで、視覚的心地よさを与えてくれる。おまけに白を背景に黒い作品という組み合わせは、立体になった前衛書道を踏まえて見えてくる。スポットライトで白い面に落ちた作品の影は、墨の滲みが生み出す白黒の間に現れるグラデーションみたいである。梅田さんの作品の背後には日本文化のコンテクストが隠れている。

 

西洋のアート、コンテンポラリーアートは、西洋文化のコンテクストに連なっている事を踏まえて、現時点で主流となっている価値観の刷新をする事、そして新しい価値観のコンセプトを伝えるメディアの役割としての作品制作というルールの下に営まれている事が基本となっている。王侯貴族や教会の所有物だった芸術は、市民革命・個人の意識の萌芽により美術館を通して一般にも開放されるようになりだした時から、新しい価値観を提示するもの・知の更新としての役割を果たしてきた。アートはおおむねこういった知の刷新メディアである。しかし梅田さんはこの知の学術としてのアート、ロジックを内包した知を伝えるメディアとしてのアートに違和感を抱くとアーティストステイトメントで述べていた。芸術は理屈や言葉を超えたところにある、精神の自由な戯れを与える装置のようなものとしてあっていいのではといったような事を仰っている。なるほどこれは自然な反応だと思われる。なぜなら我々は日本人だからである。日本人は社会性をもって、知の刷新として芸術など制作してこなかったからだ。この本来のアートとのズレに振り回されている事は未だ解決しない問題ではある。職人技、工芸などが生む美的価値、禅や仏教・神道などの精神や存在に面影を投影する抒情性、茶道や華道・武士道などに通っている生き方の拠り所など、西洋とは違う文化歴史背景が我々の美の世界にはある。梅田さんはこの事に気づいていらっしゃるのではないだろうか。

 

作品は針金と布にカシュ―塗料で黒く塗られたもので、パーツに分かれている。つまり形が可変であり、持ち運びの利便性もある。形が常に変化するとは普遍性を持たないのであり、この世の全ては常に変化していくという無常観とも通じる意識である。移動の利便性といえば日本には掛け軸というものがある。と、日本的要素が本展には実に多くある。個展タイトルにもあるが、余白の感触は「有る」の反転で立ち現われる。梅田作品は様々な角度からとらえる事が出来て、見る者の心を無数の余白に遊ばせてくれる。

 

アートとはこうあるべきだという諸々の概念を一度空じて、日本の文化を意識的に捉えて芸術に取り組む事は大事なんじゃないかななんて思うのです。

 

 

 

梅田力個展「余白の感触」2018.9.25(火)~9.30(日)@さいとうgallery(札幌)


千代明個展@茶廊法邑(札幌)

 

絵画ONアルミニウム

 

 アルミニウムの板の上に刻まれた線。奇麗な曲線が複数走り、それらはアルミニウムの支持体の上で交わりながら重層的な線の模様を描いている。これらの抽象的な線描は、光の反射を受けて画面の奥に線が見えたり、画面の手前に線が見えたりと立体的な印象を与える。それは絵が描かれているというよりは、画面上に浮遊しているといった感じである。

 

 アルミニウムは我々の日常によく見る素材である。アルミ箔やアルミサッシ、缶ビールなど身近な存在。でもアルミニウムに絵を描くなんて珍しいと思いきや、1円玉という最も馴染みのある絵画を普段目にしているのである。1円硬貨には1という数字と若木の絵が刻まれているが、まさに絵画ONアルミニウムである。

 

 1円硬貨の価値は描かれた若木の美しさや出来栄えで決まるのではない(もっとも、偽造という観点からこの若木のデザインでなくては価値がないという基準を持ってはいるが)1円という法定通貨として国が信用を与え我々が共有している上での1円という価値である。また、発行年や発行枚数による希少性や仮に硬貨の使用が廃止されれば、この硬貨は1円という価値を超えた希少価値を持った物質に、それを信用している者の間で生まれ変わる。つまり、価値とは物質に宿る信用で決まっている。つまり虚構を共有しているわけだ。

 

 アート作品の市場価値も同様で、描かれた表象の出来栄えを超えた、その作品に宿る信用の度合い(作家や作品の知名度・人気、歴史的価値の共有)や1点ものとしての希少性(供給<需要)が価値を作る。

 

 千代明作品が描くアルミニウム上を浮遊するような抽象的線描は、なにか物質に宿る信用という正体を浮き彫りにしているように見えてくる。

 

 

 

山が動くように

 

 展示作品の一つにモーターでアルミニウムキャンバスがゆっくりと動き、表象が変化していくものがある。作家いわく、本来はもっと遅く動かす予定であったが、96日の地震により部品が壊れ、予定の倍以上のスピードで動かさざる負えなくなったという。この作品を見てから、他の作品に目をやると止まっている作品の表象まで動いているような錯覚を起こしてしまう。きっとこのまるで動いているように見えるくらいの変化の度合いが、本来の遅いスピードが生む動きに近かったのではないか。作家はそれを無重力状態の宇宙を浮遊しているような錯覚と捉え「Zero gravity」というタイトルを付けている。

 

  3Dのような前後の奥行きと動きを感じる平面といえば、長谷川等伯の「松林図屏風」が思い浮かぶ。日本人に大変人気の作品であるが、動いていないものを動いているように感じるという事とは、もののわずかな動き・ゆらぎを感じ取る心が捉えている心理である。不動のものは存在しないのであり、全ては危うくゆらぎ移ろっていく。本来我々はその事をよく知っている。しかし、1円硬貨を1円の価値があるものと無意識に思い込み、本当はその裏にある信用という、いつゆらぐとも分からない不確かな虚構が宿っている事を意識はしない。それは例えば山が見えない速さで動いている事に気づかないといった例えのように、我々はごくわずかな揺らぎの存在を意識しなくなっているのかもしれない。大陸が地殻変動で僅かに動き続けているなんて、知識で知っていても普段誰も意識しない。地震に直面して初めて地球の変動を知るのである。

 

 

千代明作品は我々にゆらぎの存在を再認識させてくれるような知をもった装置として、見る者の心と対面しているのである。

千代明個展2018.9.5(水)~9.16(日)@茶廊法邑(札幌)


「掻く」春苑個展@ギャラリー犬養一階ピアノ部屋(札幌)

 「書く」ではなく「掻く」と表記された書の展示になっている。背中をかくとか手で水をかくとか、はたまた弦楽器の弦をかきむしるといった「かく」である。つまり表面をなぞるというよりももっと摩擦を生じるような、ものに力を及ぼす事で何かを成す行為を思わせる。文字を刻み付けるという感覚を意識している事が伺える。

 

頭上の煩悩と正面の壁

 

 会場の真ん中に立つ一本の柱を木に見立てながら、たくさんの葉として擬かれた紙が天井を覆っている。その葉には一文字ずつ刻印され、言葉が夏真っ盛りに生い茂っているといった体だ。表された文字は「八風」。八つの煩悩を表す八種類の文字である。「文字を葉に掻くというかつての行為に倣い、心情という種から生まれた末の煩悩を一本の木として捉え、生い茂らせた葉・煩悩達と向き合う自分」という趣旨を作家は表現しているという。頭の上を覆う煩悩達。それは人間が生まれてから外界との接触で生み出してきた頭の創造物である。なかなか手の届かない所でそれらはひらひらと風に舞う。そう簡単には振り落とせない誰もが心当たりのあるものだ。だから作家は横軸に向かう。壁へと向かう。

 

 禅語を中心とした作品群が壁に掛かる。「お前は誰だ」と自らの存在を問う作品、「侘寂侘寂…」と繰り返された、外部事象としての不足の物悲しさ(侘しさ)と内部から沸き起こる孤独感が生む物悲しさ(寂しさ)の両方と向き合う作品。自分と他者の縁起や因果を問うような禅問答が展開される。禅の開祖・達磨大師は9年間壁に向かって座禅を組んだと言われているが、作家はひたすら言葉を壁に投げかけて跳ね返ってくるそれを受け止めているようだ。そして鑑賞者もまた同じことを追体験するのではないか。

 

 自ら生み出した煩悩を頭上に抱えながら、壁に向かうように自問自答する。煩悩から解き放たれようと試みて。作家はそのような空間を小さな庵として結んだのかもしれない。

 

 

問い続けていく事

 

 煩悩の葉を頭上に広げた一本の木。作家はこの幹から一部を削り出し、それを漉いて紙を生み出し、燃やして墨を作る。後は水という幹を流れる血の定着液を使って墨を紙に刻む。自らが生んだ煩悩に対して自らの体で作り出した道具を使って向き合う…こんな寓意を思わせるような展示構成。その行動はまるで円相のように自己完結した動きであり繰り返しを想起させる。

 

 作家春苑は、両の手のひらで掬った水は隙間から零れ落ちていく事を知っている。会場入って左手に掛かる「失う」という作品がそれを語っている。そしてまた水を掬おうとする。そんな繰り返しの問いを続けていこうとしているようだ。

 

 

 「禅」をこのように空間化として翻訳したような見せ方は、現代人への「禅」への切り口として一つ有効であるように思われる。また賛否両論あろうが、「書」というものに対してこのような入り口を作る事もまた面白いのではないだろうか?

 

「掻く」春苑個展2018.8.29(水)~9.3(月)@ギャラリー犬養1階ピアノ部屋(札幌)


「きらめきの結晶体/紡がれる物語」石井誠/寺脇扶美/福田真和@TO OV cafe(札幌)

 

メディアアーティストの落合陽一さんの作品にコロイドディスプレイがある。超音波によって細かく振動したシャボン膜に蝶々の映像を投影した作品。いつ弾けるとも分からない脆いシャボン膜上の蝶は美しくも儚さという面影を常に宿し、儚いものに対する愛おしさを感じる日本人の美意識をデジタルで表現している。

 

本展で展開された三人の作品は儚さや揺らぎ、移ろいという不安定なものの中に見ようとするある確かなものを表現したそれぞれの形であるように思われる。

 

 

石井誠作品の移ろいと実体

 

 Artifact by printing_Ark。石膏摺りの作品。トランクケースの形をした作品は、その側面が変容している。線が走り面は歪み変色している。カバンは物を入れ運ぶものである。当然場所と時間の移ろいの中で風化していく。外部要因で損傷し疲弊すればだんだんと変化しやがては使い物にならなくなるところまで行くであろう。しかし、この作品が見せている側面の表情はどうも、そういった変容を表しているようには見えない。疲労感を感じる馴染みや味わいというものを感じない。石膏のカバンは角が鋭利な直方体で、真顔で鎮座している。それは実際のトランクケースとは似つかぬ風情だ。その無機質な感じのカバンの側面が変容している。この異常性を持った変容は、直方体の物体の内側にある存在が外部に現れとなって出てきたものなのではないか。

 

 社は時間と共に風化する。ところがその中に立ち寄る神はいつでも我々のイメージとして新鮮に現れる。森の手前に建つ鳥居もそうだ。朽ちていく鳥居の向こう側にはいつも変わらぬ神の存在を見ている。我々が崇める社の中はカラである。しかしそのカラに神の存在を見るのであり、大事なものはそのカラの方である。変わっていくものと不変の実体。自然が作り出す移ろいと人工的な変わらないもの(ここでは人間が作り出した虚構)の関係である。

 

 石井作品のトランクケースは一見、自然現象によって起こる移ろいを思わせながら、本当はその物質の内側にある不変の何かを表そうとしているのではないか。時空の変化に晒される社の空洞に変わらぬイメージを見るように。作品タイトルのプリントによる人工物とは、カラの中に宿る不変の何かを写し取ったという事かもしれない。

 

 

寺脇扶美作品の儚さと実体

 

 平面上がエンボス加工され、その凹凸の部分部分が色で塗られている。これらの作品は水晶や宝石を写生して生まれたものであるという。つまり、立体が平面に描き変えられた事になる。それは展開図のように多面体の面が広げられ、視界で一握出来る状態になったという事だ。立体では視点によっては当然見えない面が存在するが、この作品ではエンボスの凹凸によって平面上に全ての面が存在している風である。ピカソのキュビズムのようなやり方で全ての面に平等性を与えている。そして面の一部は色彩を放ち、そうでない部分は胡粉の白のままである。水晶や宝石は動かす事できらきらとした輝きを放つが、ここではその面の輝きを一望の下に見ているようである。つまり光の明滅の明と滅を同時に認識する。すると、光を放つ部分よりも光を持たない部分に目を向けてしまう。エンボスの胡粉の方に何か思いを寄せてしまうのだ。恒星は自ら燦然と光を放ち表面の全てが眩しい。しかし外光を受けて初めて輝く存在は当たる部分とそうでない部分の違いにより光の明滅を生む。そのきらきらとした揺らめきはどことなく儚い。日本人はこの儚さに慈しみや悲しさや微かな希望といったような思いを映そうとする。平面化という、光の明滅を一望に展開してしまった寺脇作品からは、我々が儚さに心情を映す行為を認識させられるのだ。

 

 雲母は「うんも」と読むが「きら」とも読む。この鉱物は非常に脆い。雲母を使った浮世絵のきら摺りはきらきらと光る。きらめくとは輝いている状態であるが、雲母のように脆く儚い輝きでもあるのだ。

 

 

福田真和作品の揺らぎと実体

 

 揺らめく髪の長い人物。「jewel」という映像作品は、透明度を99%にした画像を数百枚重ねて出来ているらしい。つまりほとんど分からないくらいに大気にうっすらと浮かんだ人物の像を重ねてその影を濃くしているのであろうか。おそらくその画像の枚数を変える事で、投影された人物は徐々に薄くなり消えていき再び像が浮かび上がったりしている。この像の揺らぎが興味深い。ある人物の実在を見る事は、明確な像を見る者の目の中に作る。しかし、その人物に対する無数の記憶は見る者の頭の中でぼんやりと住んでいる。その程度は人物に対する思い入れや場面による記憶の濃淡によって様々であろう。人はある特定の人物に対する複数のイメージの組み合わせでその人物の存在を把握する。例えば死んだ友人は思い出や記憶となって生き続ける。この記憶の集積が作る像は、その友人が生きていた頃の肉体の認識で結ばれる像の明確さからすると少しぶれている。つまり、実在という中心からの揺らぎである。そしてその揺らぎの像を複数重ねる事で少しずつ像を確かなもの(生きていた時の実像)に近づけていく。しかしどこまで足してもぴったりとは重ならない。それは実像とは別のもう一つの像として存在している。福田作品は人間が持つ記憶の構造を見事に表しているのではないか。

 

 死んだ人間がラップトップの中でデータとして生き続ければそれは実体なのか。ホログラム化された知り合いの姿が目の前の大気中に投影されて話しかけてきたらそれは実体なのか。デジタルテクノロジ-の進化で実体に対する認識のアップデートが求められる今日。しかし、人間は記憶というもう一つのプロジェクターを常に駆使してきた。ことに我々日本人は気配や匂い、陰影などに何かの存在を感じてきた民族である。そしてそういった実在とは別の存在も、その人間にとっては一つのイメージという実体となり得るのである。揺らぎの中の確かな結晶なのである。

 

 

移ろいや儚さそして揺らぎの中に見えるもう一つの実体。三人の作家達は、我々がきらめきの中に見る、実像とは別の確かな実体、面影が投影された結晶の存在を気づかせてくれるのである。店内にある金魚鉢は水中を泳ぐ金魚の振動によって水面が揺らぎ、そこに店内を映し出していた。それはまさに揺れ動くもう一つの実体なのである。

 

きらめきの結晶体/紡がれる物語2018.8.17(金)~8.26(日)@TO OV cafe(札幌)


瀬川葉子「始まり-青の連作」~グループ展「いのちのかたち・・・かもしれない展2018」より@ギャラリーエッセ(札幌)

5人の女性作家達が普段の生の営みの中で作り出してきた作品を、今生きている事の軌跡として展示しているグループ展。その中の一つ、瀬川葉子さんの作品「始まり-青の連作」。正方形の大小のキャンバスに破ったボール紙を張り、ボール紙を黒くコーティングして、その上から青いアクリル絵の具を所々這わせていく。それらがランダムな配置で壁に掛かっている。

 

一期一会

 作品は全て正方形のキャンバスという制限の中で表現されている。破ったボール紙に黒と青を乗せた表象は全て違う。ボール紙の破れ方やその重なり方の違い、黒の濃淡に青の形状が重なる表情の違いが全てを唯一無二にしている。中にはキャンバスからボール紙がはみ出したものもある。同じ条件で毎回2つとない顔を見せている。タイトルの「始まり」とは制作の中で作者が感じ取る何かが生まれる瞬間に対する希望でもあるが、毎回が新鮮なスタートを切っているという意味合いもあるのではないか。つまり正方形という制限があるからこそ、その中でいかに2つとないものを生み出していくかという心構えのようなものである。

 これはまさに取り組む作品一枚一枚が一期一会なのである。一期一会とは茶道からきた言葉である。主人と客人の出会いはいつでも唯一無二の時間なのであり、茶室で行われる一切の事をおろそかにせず真摯に取り組む事で、場を2つとないものに出来るという姿勢。瀬川作品はこの一期一会の態度で臨んだ時間(それはいつも新しい始まり)が形になったのだ。

 

「わび」のボール紙

 黒い濃淡のボール紙と青の共演が美しい。生き物の皮膚のようにも熱を持った金属のようにも見える。見る人によって様々な美しい形を投影するであろう。しかし元の素材はボール紙である。日常見慣れた些末なものが、作者の手によって美しい形象に変わる。これも茶道の姿勢に通ずるものがある。「わび」の精神だ。元々高価なものをあつらえて臨んでいた茶道であるが、その代替え品として侘びたものでもてなそうという態度である。「不足の美」という言葉があるが、真体(本来)に対して草体(仮のもの、簡易)で賄う侘しさに宿る美だ。今様に言えば不足に感じるエモいである。

 ボール紙という素材はこの「わび」のエモさを内包しているのである。

 

瀬川葉子作品は一期一会とわびの精神を内包させ、物事の一つ一つの機会に対して、間に合わせに美を見出し常に新しい気持ちで臨む姿勢を反映させている。それは我々日本人が持っている日々の生活における凛とした心なのではないだろうか。

いのちのかたち・・・かもしれない展2018 2018.8.7(火)~8.19(日)@ギャラリーエッセ(札幌)


澁木智宏「またはその一瞬」@JRタワーARTBOX(札幌)

閉じ込められた過去

 一年間の間で集まったレシート群。作者が生活していく中で購入したものやサービスが記載されている。日付や品名はそのレシートが発行された過去の一点を示す。作者がそれらを眺め過去の記憶を辿るように、我々鑑賞者もそれぞれのレシートから過去の一点を想像してみようとする。

 だが、思考はそこで止まる。記載事項が読み取れないのだ。それらはフェルトでうっすらと隠され、過去の記録は羊毛で閉じ込められてしまった。このテキスタイル作品は作者の過去を後追いする事を許さないのだ。

 

凍結されたレシート

 フェルトに閉じ込められたレシート群をよく見ると、それぞれが違う形状をしている。折れや破れやしわ、そしてしなりなど、外部の力で変形したレシート達。これらはレシート発行時点から作者によるフェルト加工時点までの間に、レシートに起こった事象の結果である。フェルトで覆われたレシート群はその形のまま凍結されたのだ。

 このレシート達が我々に見せているものは、作者の足跡という過去の一点ではなく、発行後のレシート達の蠢きではないのか。このレシート達は点状の過去ではなく線状の時間の面影を宿し、そしてそれは作者の一年の蠢きをも暗示しているのである。

 

一瞬の尊さ

 フェルト加工レシート群は立体的になり、重なりの中で影を落とし、ぼやけた印字が物質に模様のような複雑さを与える。どこか有機的であり、コの字状に配置された作品は緞帳のようである。もしくはフェルトの質感からか繭のようでもある。レシート群の向こうに何か得体の知れない存在が潜んでいて、神道の依り代のようにその存在を宿しているのではと幻視する。

 その存在の蠢きは、一年間に作者が踏んできた過去という一瞬一瞬の集積が見せる巨大な存在感を思わせる。鑑賞者は過去の一瞬の積み重ねが生む計り知れない大きさを知り、それは同時に今という一瞬の尊さというものに気づかされる。つまるところ澁木作品は尊い一瞬を積み重ねていくという、未来への臨み方を示唆してくれるのだ。

 

作者は言う「忘れ去っていくもの普段意識しないものにこそ焦点をあて、それらを意識の下に拾い上げ未来に投げる行為である。」と。

澁木智宏「またはその一瞬」2018. 6. 1(金)~8. 31(金)@JRタワーARTBOX(札幌)


MARI FUJITA EXHIBITION@ギャラリーミヤシタ(札幌)

負の中の希望

 藤田真理さんの個展。一階の部屋。石膏のような白い素材で作られた排水溝が3つ並んでいる。部屋は暗室で、スポットライトが3つの排水溝に当たる。ドラマティックに佇む排水溝の溝から顔を出す緑色の雑草。ぐんぐんと逞しく地上へ伸びている風ではなく、ポッ、ポッと顔だけ出している。その姿は健気な愛らしさという印象である。

 

 3つの 排水溝は入り口側から奥に向かって少しずつ草の本数が増えていく。ある特定の排水溝における時の経過を、草の増殖という時間軸で表しているようである。しかしそこには草が上へと成長していく流れは反映されていない。どの排水溝も溝から飛び出したその高さで草の成長は止まっている。つまりこれは作者の神の手で止められているのではないか。藤田さんが表したかったものは雑草の逞しさではなく、やっと地上の光を直接浴びる所まで顔を出した健気な姿なのではないだろうか。

 

 このちょっとだけというニュアンス。人工物である排水溝と対極の自然物である雑草。両者は拮抗しておらず、どちらかと言えば人工物に抗う自然物といったおもむき。雑草は排水溝を覆い尽くすように制圧するわけでもなく、やっと一矢報いたという状態。時間軸の中に草の増殖は見せても成長を反映させなかった事は、作者がこのささやかな抵抗の姿に美を見たからではなかろうか。

 

 圧倒的勝利よりも「負」寄りの状況に惹かれる。日本人の美意識には負けの中のささやかな抵抗に一筋の希望の面影を見るような負の美学がある。無常観に一瞬の大事さを、散る花の儚さに咲き誇っていた時の映像と次咲く時までの希望を、幽(かそけ)し中に存在感を感じるもののあわれがある。藤田さんの排水溝作品は「負」に見る「生」といったようなもののあわれを宿している。この雑草達の排水溝からやっとこさ顔を出した姿は、かすかな生きる希望を輝かせている。

 

 作品タイトルは「共存-めばえ-」。排水溝と雑草の対極がやがて共存へと向かえる希望を、めばえに宿している。そして現代日本の日常のあちらこちらに、このような負に宿る希望を思うもののあわれが存在している事を、藤田作品はコンテンポラリーに気づかせてくれるのだ。

MARI FUJITA EXHIBITION 2018. 7.20(金)~8. 5(日)@ギャラリーミヤシタ(札幌)


谷杉アキラ写真展 ピリカノカ-ウパシ-@カフェエスキス(札幌)

化粧を施されて

 北海道の風景はまるで画像の粒子までがはっきりと見えているかのように空気が澄んだ明快さを持っている。以前、遷都1300年の時に奈良を訪れた事があるのだが、その日はしとしとと雨模様であった。遠くの山が水墨画のように淡く佇み、新しく改装された朱雀門は建設当時の中国文化の朱をそのままに宿していた。湿潤な本州の気候が産み出す淡い大気の中でビビッドなまでの色味と存在感で鎮座していた朱雀門は、まさに1300年前から時空を超えてやってきたかのような不思議なリアリティを醸し出していたのを覚えている。北国の乾いた空気はそんな深山幽谷的世界観を我々には見せないが、雪という化粧を施された瞬間に北の大地は一転、単色の幽玄な世界の表情をするのだ。谷杉さんの写真はそんな北海道の風景を見せてくれる。

 

舞うカムイの面影

 幽玄という美意識をテーマとする日本の文化に能がある。その一形式である夢幻能。これは世阿弥が生み出したスタイルで、神や精霊などの超自然的存在が旅人の前に出現し、その土地にまつわる話を語るというものである。登場人物がすべて現実の人間である現在能と区別して言われる。谷杉作品を眺めていると北海道の原風景としての大地に思いを馳せ、そこにアイヌが信仰していたカムイの姿を見るようである。「ピリカノカ」はアイヌ語で美しい形、「ウパシ」は雪を意味するという。雪が今の北海道の大地を隠すと同時に原風景の美しい形を浮上させる。その景色は色彩がシンプルになり、木々は葉が落ち殺伐とした枝の姿になる。能舞台が本舞台、後座と橋掛かりで構成された最小限の世界であるように、雪原の北海道も「さび」のようなシンプルな世界に変貌するのだ。谷杉さんが「白く果てしない雪原の中を旅するような感覚でご覧いただけたら幸甚です。」とおっしゃるように、鑑賞者は雪原の旅人となって夢幻能のごとくカムイと出会い、悠久の時を超えた、人と自然の営みの物語を辿るのかもしれない。

 

北海道夢幻能

 谷杉さんの雪原の写真展は、日本文化を北海道で更新するという大きな挑戦の可能性を問うている。いつか雪原で行われる夢幻能の演目を見てみたいものである。きっと谷杉作品のように新鮮で美しい世界を見せてくれるに違いない。北海道命名150年の年に行われた展示として非常に有意義な催しだったと思う。

谷杉アキラ写真展 ピリカノカ-ウパシ-2018. 8.2(木)~9.4(火)

@カフェエスキス(札幌)

 


ダム・ダン・ライ作品展-森-@茶廊法邑(札幌)

上昇と下降の世界

 会場には木材を彫刻した物体が数点点在し、壁には三枚の平面画が展示されている。彫刻作品は円盤型のものが五重の塔の屋根のように縦に並び、それぞれの間は丸い空洞を有している。日本庭園にある石灯篭のような面影を表し、上へ伸びていこうとする木々のようだ。一方平面画は赤や青など数種類の色彩の線描が縦にひたすら塗られた画面構成である。三枚ともに同じ構成であり、色彩は彩り豊かというよりは一色一色の存在感が明解で光を帯びているような明るさを持つ。色数よりも単色の存在感を秘めたペインティングである。そしてこの縦の線描は上から下へ流れているように見られる。天から降り注ぐ光や雨を思わせる流れである。それは彫刻作品が木々のように上昇志向の有機体と捉えた瞬間に、対極の動きを持つものとして平面作品を捉えてしまうからなのかもしれない。そのように見る事で会場全体は森景を構成するのである。

 

土壌の上の傘たち

 木彫作品の円盤は5枚のものや7枚のものなど様々であるが、五重の塔に見えていた彼らはむしろその上に立つ相輪に近い印象だ。相輪は仏塔の上に突き出た部分の装飾物の事。荼毘に付された釈迦の骨を納めた塚(ストゥーパ)の上に重ねられた傘が由来だ。この傘は元々インドの暑さから釈迦を守るために置かれたものらしい。しかしこの相輪の一番上の部分(宝珠)に釈迦の骨が納められていることになっており、一般的に相輪の下の仏塔本体自体よりもこの相輪が本来拝むべき大事な所であるらしい。ダム・ダン・ライの木彫作品はこの相輪のような形で会場に立っている。本来下に眠る釈迦を守る添え物であった傘がやがて釈迦の骨が眠る最重要部分に生まれ変わったように、全てのものを支える最重要部分である土壌から芽を出し成長した木々はやがて森を彩る主役となる。ダム・ダン・ライ木彫作品はそんな土壌の上に現れた多様な木々たちである。どの作品も形や高さ、反り方が違う。

 

上昇下降の調和世界-森-

 ダムさん本人が仰っていたが、作品の色彩は彼の故郷・ベトナムに住む少数民族の文化に見られる単色を中心とした色使いが反映されているらしい。平面画の色彩は多色であるが、派手な印象や暑苦しさはない。木彫作品は木の素材の色そのままである。会場全体は空から降る光や雨を表現したような平面画と、その恩恵を受けながら上へ成長していく木々で構成された寂寞とした森の営みといった印象だ。釈迦の骨が眠る塚の上に重ねられた傘は上空の暑さをはねのけるものであったが、ダム・ダン・ライ木彫作品は降り注ぐ光や雨の恵みを一身に受けて伸びていこうとする。土壌の上で繰り広げられる上昇と下降が出会う狭間にそれぞれの木々は固有に成長し多様な形を展開する。そういう調和の森がダム・ダン・ライ作品展-森-には広がっていた。

 

ダム・ダン・ライ作品展-森-2018.7.18(水)~7.29(日) @茶廊法邑(札幌)