瀬川葉子「始まり-青の連作」~グループ展「いのちのかたち・・・かもしれない展2018」より@ギャラリーエッセ(札幌)

5人の女性作家達が普段の生の営みの中で作り出してきた作品を、今生きている事の軌跡として展示しているグループ展。その中の一つ、瀬川葉子さんの作品「始まり-青の連作」。正方形の大小のキャンバスに破ったボール紙を張り、ボール紙を黒くコーティングして、その上から青いアクリル絵の具を所々這わせていく。それらがランダムな配置で壁に掛かっている。

 

一期一会

 作品は全て正方形のキャンバスという制限の中で表現されている。破ったボール紙に黒と青を乗せた表象は全て違う。ボール紙の破れ方やその重なり方の違い、黒の濃淡に青の形状が重なる表情の違いが全てを唯一無二にしている。中にはキャンバスからボール紙がはみ出したものもある。同じ条件で毎回2つとない顔を見せている。タイトルの「始まり」とは制作の中で作者が感じ取る何かが生まれる瞬間に対する希望でもあるが、毎回が新鮮なスタートを切っているという意味合いもあるのではないか。つまり正方形という制限があるからこそ、その中でいかに2つとないものを生み出していくかという心構えのようなものである。

 これはまさに取り組む作品一枚一枚が一期一会なのである。一期一会とは茶道からきた言葉である。主人と客人の出会いはいつでも唯一無二の時間なのであり、茶室で行われる一切の事をおろそかにせず真摯に取り組む事で、場を2つとないものに出来るという姿勢。瀬川作品はこの一期一会の態度で臨んだ時間(それはいつも新しい始まり)が形になったのだ。

 

「わび」のボール紙

 黒い濃淡のボール紙と青の共演が美しい。生き物の皮膚のようにも熱を持った金属のようにも見える。見る人によって様々な美しい形を投影するであろう。しかし元の素材はボール紙である。日常見慣れた些末なものが、作者の手によって美しい形象に変わる。これも茶道の姿勢に通ずるものがある。「わび」の精神だ。元々高価なものをあつらえて臨んでいた茶道であるが、その代替え品として侘びたものでもてなそうという態度である。「不足の美」という言葉があるが、真体(本来)に対して草体(仮のもの、簡易)で賄う侘しさに宿る美だ。今様に言えば不足に感じるエモいである。

 ボール紙という素材はこの「わび」のエモさを内包しているのである。

 

瀬川葉子作品は一期一会とわびの精神を内包させ、物事の一つ一つの機会に対して、間に合わせに美を見出し常に新しい気持ちで臨む姿勢を反映させている。それは我々日本人が持っている日々の生活における凛とした心なのではないだろうか。

いのちのかたち・・・かもしれない展2018 2018.8.7(火)~8.19(日)@ギャラリーエッセ(札幌)


澁木智宏「またはその一瞬」@JRタワーARTBOX(札幌)

閉じ込められた過去

 一年間の間で集まったレシート群。作者が生活していく中で購入したものやサービスが記載されている。日付や品名はそのレシートが発行された過去の一点を示す。作者がそれらを眺め過去の記憶を辿るように、我々鑑賞者もそれぞれのレシートから過去の一点を想像してみようとする。

 だが、思考はそこで止まる。記載事項が読み取れないのだ。それらはフェルトでうっすらと隠され、過去の記録は羊毛で閉じ込められてしまった。このテキスタイル作品は作者の過去を後追いする事を許さないのだ。

 

凍結されたレシート

 フェルトに閉じ込められたレシート群をよく見ると、それぞれが違う形状をしている。折れや破れやしわ、そしてしなりなど、外部の力で変形したレシート達。これらはレシート発行時点から作者によるフェルト加工時点までの間に、レシートに起こった事象の結果である。フェルトで覆われたレシート群はその形のまま凍結されたのだ。

 このレシート達が我々に見せているものは、作者の足跡という過去の一点ではなく、発行後のレシート達の蠢きではないのか。このレシート達は点状の過去ではなく線状の時間の面影を宿し、そしてそれは作者の一年の蠢きをも暗示しているのである。

 

一瞬の尊さ

 フェルト加工レシート群は立体的になり、重なりの中で影を落とし、ぼやけた印字が物質に模様のような複雑さを与える。どこか有機的であり、コの字状に配置された作品は緞帳のようである。もしくはフェルトの質感からか繭のようでもある。レシート群の向こうに何か得体の知れない存在が潜んでいて、神道の依り代のようにその存在を宿しているのではと幻視する。

 その存在の蠢きは、一年間に作者が踏んできた過去という一瞬一瞬の集積が見せる巨大な存在感を思わせる。鑑賞者は過去の一瞬の積み重ねが生む計り知れない大きさを知り、それは同時に今という一瞬の尊さというものに気づかされる。つまるところ澁木作品は尊い一瞬を積み重ねていくという、未来への臨み方を示唆してくれるのだ。

 

作者は言う「忘れ去っていくもの普段意識しないものにこそ焦点をあて、それらを意識の下に拾い上げ未来に投げる行為である。」と。

澁木智宏「またはその一瞬」2018. 6. 1(金)~8. 31(金)@JRタワーARTBOX(札幌)


MARI FUJITA EXHIBITION@ギャラリーミヤシタ(札幌)

負の中の希望

 藤田真理さんの個展。一階の部屋。石膏のような白い素材で作られた排水溝が3つ並んでいる。部屋は暗室で、スポットライトが3つの排水溝に当たる。ドラマティックに佇む排水溝の溝から顔を出す緑色の雑草。ぐんぐんと逞しく地上へ伸びている風ではなく、ポッ、ポッと顔だけ出している。その姿は健気な愛らしさという印象である。

 

 3つの 排水溝は入り口側から奥に向かって少しずつ草の本数が増えていく。ある特定の排水溝における時の経過を、草の増殖という時間軸で表しているようである。しかしそこには草が上へと成長していく流れは反映されていない。どの排水溝も溝から飛び出したその高さで草の成長は止まっている。つまりこれは作者の神の手で止められているのではないか。藤田さんが表したかったものは雑草の逞しさではなく、やっと地上の光を直接浴びる所まで顔を出した健気な姿なのではないだろうか。

 

 このちょっとだけというニュアンス。人工物である排水溝と対極の自然物である雑草。両者は拮抗しておらず、どちらかと言えば人工物に抗う自然物といったおもむき。雑草は排水溝を覆い尽くすように制圧するわけでもなく、やっと一矢報いたという状態。時間軸の中に草の増殖は見せても成長を反映させなかった事は、作者がこのささやかな抵抗の姿に美を見たからではなかろうか。

 

 圧倒的勝利よりも「負」寄りの状況に惹かれる。日本人の美意識には負けの中のささやかな抵抗に一筋の希望の面影を見るような負の美学がある。無常観に一瞬の大事さを、散る花の儚さに咲き誇っていた時の映像と次咲く時までの希望を、幽(かそけ)し中に存在感を感じるもののあわれがある。藤田さんの排水溝作品は「負」に見る「生」といったようなもののあわれを宿している。この雑草達の排水溝からやっとこさ顔を出した姿は、かすかな生きる希望を輝かせている。

 

 作品タイトルは「共存-めばえ-」。排水溝と雑草の対極がやがて共存へと向かえる希望を、めばえに宿している。そして現代日本の日常のあちらこちらに、このような負に宿る希望を思うもののあわれが存在している事を、藤田作品はコンテンポラリーに気づかせてくれるのだ。

MARI FUJITA EXHIBITION 2018. 7.20(金)~8. 5(日)@ギャラリーミヤシタ(札幌)


谷杉アキラ写真展 ピリカノカ-ウパシ-@カフェエスキス(札幌)

化粧を施されて

 北海道の風景はまるで画像の粒子までがはっきりと見えているかのように空気が澄んだ明快さを持っている。以前、遷都1300年の時に奈良を訪れた事があるのだが、その日はしとしとと雨模様であった。遠くの山が水墨画のように淡く佇み、新しく改装された朱雀門は建設当時の中国文化の朱をそのままに宿していた。湿潤な本州の気候が産み出す淡い大気の中でビビッドなまでの色味と存在感で鎮座していた朱雀門は、まさに1300年前から時空を超えてやってきたかのような不思議なリアリティを醸し出していたのを覚えている。北国の乾いた空気はそんな深山幽谷的世界観を我々には見せないが、雪という化粧を施された瞬間に北の大地は一転、単色の幽玄な世界の表情をするのだ。谷杉さんの写真はそんな北海道の風景を見せてくれる。

 

舞うカムイの面影

 幽玄という美意識をテーマとする日本の文化に能がある。その一形式である夢幻能。これは世阿弥が生み出したスタイルで、神や精霊などの超自然的存在が旅人の前に出現し、その土地にまつわる話を語るというものである。登場人物がすべて現実の人間である現在能と区別して言われる。谷杉作品を眺めていると北海道の原風景としての大地に思いを馳せ、そこにアイヌが信仰していたカムイの姿を見るようである。「ピリカノカ」はアイヌ語で美しい形、「ウパシ」は雪を意味するという。雪が今の北海道の大地を隠すと同時に原風景の美しい形を浮上させる。その景色は色彩がシンプルになり、木々は葉が落ち殺伐とした枝の姿になる。能舞台が本舞台、後座と橋掛かりで構成された最小限の世界であるように、雪原の北海道も「さび」のようなシンプルな世界に変貌するのだ。谷杉さんが「白く果てしない雪原の中を旅するような感覚でご覧いただけたら幸甚です。」とおっしゃるように、鑑賞者は雪原の旅人となって夢幻能のごとくカムイと出会い、悠久の時を超えた、人と自然の営みの物語を辿るのかもしれない。

 

北海道夢幻能

 谷杉さんの雪原の写真展は、日本文化を北海道で更新するという大きな挑戦の可能性を問うている。いつか雪原で行われる夢幻能の演目を見てみたいものである。きっと谷杉作品のように新鮮で美しい世界を見せてくれるに違いない。北海道命名150年の年に行われた展示として非常に有意義な催しだったと思う。

谷杉アキラ写真展 ピリカノカ-ウパシ-2018. 8.2(木)~9.4(火)

@カフェエスキス(札幌)

 


ダム・ダン・ライ作品展-森-@茶廊法邑(札幌)

上昇と下降の世界

 会場には木材を彫刻した物体が数点点在し、壁には三枚の平面画が展示されている。彫刻作品は円盤型のものが五重の塔の屋根のように縦に並び、それぞれの間は丸い空洞を有している。日本庭園にある石灯篭のような面影を表し、上へ伸びていこうとする木々のようだ。一方平面画は赤や青など数種類の色彩の線描が縦にひたすら塗られた画面構成である。三枚ともに同じ構成であり、色彩は彩り豊かというよりは一色一色の存在感が明解で光を帯びているような明るさを持つ。色数よりも単色の存在感を秘めたペインティングである。そしてこの縦の線描は上から下へ流れているように見られる。天から降り注ぐ光や雨を思わせる流れである。それは彫刻作品が木々のように上昇志向の有機体と捉えた瞬間に、対極の動きを持つものとして平面作品を捉えてしまうからなのかもしれない。そのように見る事で会場全体は森景を構成するのである。

 

土壌の上の傘たち

 木彫作品の円盤は5枚のものや7枚のものなど様々であるが、五重の塔に見えていた彼らはむしろその上に立つ相輪に近い印象だ。相輪は仏塔の上に突き出た部分の装飾物の事。荼毘に付された釈迦の骨を納めた塚(ストゥーパ)の上に重ねられた傘が由来だ。この傘は元々インドの暑さから釈迦を守るために置かれたものらしい。しかしこの相輪の一番上の部分(宝珠)に釈迦の骨が納められていることになっており、一般的に相輪の下の仏塔本体自体よりもこの相輪が本来拝むべき大事な所であるらしい。ダム・ダン・ライの木彫作品はこの相輪のような形で会場に立っている。本来下に眠る釈迦を守る添え物であった傘がやがて釈迦の骨が眠る最重要部分に生まれ変わったように、全てのものを支える最重要部分である土壌から芽を出し成長した木々はやがて森を彩る主役となる。ダム・ダン・ライ木彫作品はそんな土壌の上に現れた多様な木々たちである。どの作品も形や高さ、反り方が違う。

 

上昇下降の調和世界-森-

 ダムさん本人が仰っていたが、作品の色彩は彼の故郷・ベトナムに住む少数民族の文化に見られる単色を中心とした色使いが反映されているらしい。平面画の色彩は多色であるが、派手な印象や暑苦しさはない。木彫作品は木の素材の色そのままである。会場全体は空から降る光や雨を表現したような平面画と、その恩恵を受けながら上へ成長していく木々で構成された寂寞とした森の営みといった印象だ。釈迦の骨が眠る塚の上に重ねられた傘は上空の暑さをはねのけるものであったが、ダム・ダン・ライ木彫作品は降り注ぐ光や雨の恵みを一身に受けて伸びていこうとする。土壌の上で繰り広げられる上昇と下降が出会う狭間にそれぞれの木々は固有に成長し多様な形を展開する。そういう調和の森がダム・ダン・ライ作品展-森-には広がっていた。

 

ダム・ダン・ライ作品展-森-2018.7.18(水)~7.29(日) @茶廊法邑(札幌)