塩島瑤子展「American Breakfast in Nepalというたとえばなし」

 人間達の肉体が展示されていました。それらの一つ一つがどこの誰とも特定できない不確かさで立ち、吊るされ、横たわり、座っていました。服を着ている者のトルソーであったり、または心臓や膝から脛にかけての部分といった体の一部であったりと、様々な姿で存在していました。そのどれもが顔・アイデンティティを持っていない。

 

 しかし、横たわる複数の人体の列が示すように、裸か着衣かそれらは腐敗したようにボロボロであるが、どれも皆違うサイズと形の肉体達である事に疑いはないのです。これらはネパールの紙で作られているのですが、手作業により全部違う人形です。それは、人災か天災で死んでしまった人間達が1か所に集められたような、身元を特定出来ない死体の列を思わせてくるのです。

 

 このどれもが確かにこの世に一つしかない者の体なのですが、誰とも特定出来ない不確かさが、今回の展示された人形達から一定して感じられました。それは相手との距離感と解明出来ないもどかしさなのです。作品達は日常の中で消費されたプラスチックや紙などで出来ていて、その物質の形状がそのまま残った形で人型に制作されています。着衣のトルソーの内側は、そのボロきれのような衣服の向こう側に果たして裸の肉体があるのか疑わしいような、空虚さや闇を宿しているかのような印象です。

 

 人間の肉体とは、触っても齧っても確かめてもその人そのものに同化するまでは理解する事は出来ない。どんなに特別な関係になって近づいたと信じても、他者と自身の隔たりを知る事になる。その人間の精神性や考えている事は肉体からは感じ取れない。肉体は究極には入れ物でしかない。この体というものが持つ、理解や関わり合いを深める上での限界・もどかしさを本展から感じました。

 

 日々生きていく中では、相手と完全にシンクロする事など不可能であるという前提に立ちながら、どれだけ共有部分を探せるか、理解を深め合えるかという探求を持って、希望を足していくという結論に行き着いています。そんな他者との関わりを思い起こさせてくれた展示でした。

 

 そして、座った赤ん坊の人形が一つ展示されていましたが、抱き上げる事が可能(展示作品は全て触れられます)で、両手で抱きかかえた時、ふと子供いいなと思う自分がいたのでした。自分の理解を遥かに超えた可能性を孕んでいるという重みを赤ん坊は宿しているのかもしれません。その一握出来ない零れ落ちる可能性は無理解ではなく希望の塊ではと思うのです。解りきれない部分とは相手を見守っていく希望の余白なのかもしれません。

塩島瑤子展「American Breakfast in Nepalというたとえばなし」2020.1.11(土)~2020.1.26(日)@ギャラリー創