Lucifer Photo Exhibition"That Day Tokyo Dress"@ギャラリー門馬annex

華厳世界のランウェイ

 

 ギャラリーの長い回廊に並ぶマネキン。東京のショーウィンドウに立つマネキンを1年間という時間の流れの中で取り続けた写真展。マネキンは春夏秋冬のプレタポルテを超越し身に纏っている。それぞれの季節の服装を着ていた時の写真を一つに重ね合わせてある。シーズンという変化と個性を持った4つの事象の相対を、絶対的な一つの世界に変えて彼らは歩く。

 

 マネキンたちは無表情だ。それは、ランウェイを歩くモデルさながら人間味を見せない。世情を超越した存在として舞台を歩く。過剰な装飾を纏いながら燦然と輝くその体は、まるで華厳経の世界を体現しているかのようである。一即一切・一切一即、一つのものは全体に集約され同時に全体は一つの中に宿る。この世の全ては相対的に独立するのではなく、全てが縁起として繋がって、絶対的超越の世界を理想とする世界観である。季節を超越した服装、1年は一瞬に凝縮され一個として光り輝く。毘盧遮那仏か菩薩のごとき表情で華厳の曼荼羅を展開しているかのような印象を与えてくる。

 

 ランウェイを歩く高級プレタポルテを纏ったモデルたちはなぜ一様に無表情なのか?そしてなぜ同じやせた体型をしているのだろうか?服を主役に見せるためなのだろうか?春夏、秋冬と時期を先取りして発表される服はどれも個性的である。社会生活の中における人間の役割、守る規律、根づく常識から解放されたその形態は、世俗から解き放たれたような自由な創造性を表現している。洋の東西全く出処は違うが、華厳世界を歩く菩薩のような印象をスーパーモデルたち与えてくれる。今回の写真には、ショーウィンドウの中のマネキンたちが春夏秋冬を超越し、ランウェイを歩くスーパーモデルたちを超えるような華厳の輝きを持って闊歩する姿が写し出されている。

 

 物欲、生活水準の違い、社会帰属意識と孤独が渦巻く都市のストリートは、それらを全部超越したSTREET BOSATUたちが歩く華厳世界的回廊となっている。

 

 都市が孤独を超越する時、ショーウィンドウのスーパーモデルたちは一夜の夢のような荘厳な世界を見せてくれる。私たちはそんな理想郷を瞼の裏にいつも夢見ているのかもしれない。あぁ、時時無礙法界、ザ・シティー・イズ・ドリーミング。「Tokyo Dress」。

Lucifer Photo Exhibition "That Day Tokyo Dress"2019.7.6(土)~2019.7.12(金)@ギャラリー門馬annex


砂澤ビッキ展「風」@札幌芸術の森美術館

神の舌の囁き

 

 真駒内駅から芸術の森まで向かうバスの窓から、緑生い茂る風景が少しずつその深さを増してくる。今から鑑賞する展示作家の顔を、立ち並ぶ木々に投影する。札幌市街の喧騒から徐々に離れ、自然溢れる空間に入り込んでいくこの道中がもう既に展覧会のエントランスとなっている。美術館がある敷地内の木々は葉を揺らし、ざわざわと音を鳴らして空間全体が不規則に胎動する。風の仕業である。心地よい5月の大気を感じながら砂澤ビッキ展「風」に足を踏み入れた。

 

 作品をよくよく見た経験は今回が初めてである。名前だけが先行して、その存在感だけがイメージとしてあった。さて対峙した作品群はその先行イメージを凌駕する存在感をもって立ち現われた。巨大な木を鑿で削ってつくられた物体はその表面が鱗のようだ。自然の営みの中で形成された肉体の表面に対して鑿を持って探索していった足跡である。それは切り倒された木が、作家の手によって別の有機体に生まれ変わったように存在感を放つ。そしてその表情はまた、元々木が持っていた節や亀裂や黒ずみを見せる。作り手はきっと彫刻という開拓作業の諸所で、木が持っている顔と遭遇するのである。出くわすと相手を征服するのではなく、受け入れる。そのままにしておく。そしてまた探索を再開する。そこに自然に畏怖を感じながらも、その奥に分け入ってみたいという気持ちのせめぎ合いのようなものを感じるのである。それは、完全に自然を掌握・加工するのでもなく、自然をあるがままに借用するのでもなく、あくまでギリギリまで自然と対話してみようという気迫を持って挑まれた凄みがあるからなのではないだろうか。恐らく、制作は遭遇体験の連続であり、ライブだったはずだ。

 

 「神の舌」という作品がある。巨大な舌を逆さにしたような形で、やはり表面には鑿の軌跡の連続で、眼で触覚が働くゴッドタンだ。神話である。北海道の雄大な自然はホモサピエンスに神話を作らせる。縄文世界、移動民族世界の「遭遇」と「神話」だ。砂澤ビッキは神話を作り出してきた。都市生活の中ではこうはならない。都会の街路樹は細い。それはささやかなオアシスである。都市では「神話」の代わりに「はみ出し」が生まれる。それはタトゥーであり、ユニークなヘアスタイルであり、ファッションであり、音楽であり、祭りという無礼講だ。これらは生活者を取り巻くルール、法をはみ出そうとする所から生み出される。社会を一応成立させる規則に対する一時の反発だ。そうしないと都市生活者は不完全で予測不可能という人間本来の性質を失ってしまうからだ。彼らは記名のないカルチャーを次々と生み出していく。砂澤ビッキが生活した世界は無法の自然で覆われていた。そこでは法に対する反発ではなく、無法に対する畏敬の念と、狂おしい遊びの心だ。

 

 どちらも人間の人間足らんとする仕業である。しかし都市生活のそれは時に、ビジネスの損得に忖度されたり、社会の中で落としどころを得るためにデザインされてしまう。その瞬間にそれは法を破るようなある種の生々しさを失ってしまうのだ。砂澤ビッキの作品には立ち入り禁止地帯に踏み入った足跡のような生々しさを感じる事が出来るのだ。それは規律と損得の中で生活する我々に不足した生々しさなのではないだろうか。そしてビジネスと承認欲求に忙しい現代アートがなかなか超えられない羽目を外す、法を破る生々しさに代わるものとも言えないだろうか。

 

 大地を耕す事で蓄えと所有とルールを生み出した定住社会。砂澤ビッキの作品はこの予定調和的行動を迫る現代生活に、移動生活・縄文文化のような法外を現出する世界を垣間見させてくれる。そして我々現代人はビッキ作品に見られる「遭遇」と「生々しさ」を体験するような、無礼講や祭りをもっと生み出す必要を感じるのである。

 

 「神の舌」はまるで我々に遊べと囁いているようだ。

砂澤ビッキ展「風」2019.4.27(土)~2019.6.30(日)@札幌芸術の森美術館


山岸靖司展「しずかなじかん」@プレミアムスクエア

 和紙にプリントされてる写真作品なんですよね。これを見て思わず絵画みたいな表象になってるなぁなんて言ってしまうんだけど、そういう自分を改める機会でした。

 

 確かにそう見えるんだけど、そこに注力すると、その表象の妙に着地して作品鑑賞が落ち着いてしまう。それだけじゃないんだよね彼の作品は。じっと見てると、あぁこれは現実世界の人知れず営まれている光景を写真に収めてるんだなと思い至るのです。撮られているものはほぼ自然の風景です。

 

 あのですね、和紙にプリントされているが故の特有なしっとりとした質感と、少しぼやける物質の輪郭(ノーファインダーのためもあるのだろうけど)が、我々人間が見ている自然界の景色とは違う世界を表現しているように感じるのです。それはつまり自然界が営んでいる、人間の眼を通さない風景であると。主体が人間で客体が自然ではなくて、自然が主体の風景なわけです。

 

 なんでそう見えるのと問われても、理論で説明付かないんですが、なんか八百万の精霊たちの世界にカメラを据えて捕まえた景色っていうかね。作品の一つに、階段に置かれた鉢の写真があるのですが、これが唯一人工物の中の自然として捉えたものですが、とっても植物(自然)主体の世界のように見えるのです。我々の肉眼で捉えきれない所で、蠢いている植物主体の世界。いつもあの階段の所にポンっと置かれた何気ない鉢の、鉢に植わった植物の営む世界。

 

 「しずかなじかん」とは我々が住んでいる環境においての、周囲が主体の世界がひっそりと実は毎日営まれている時間軸の事を示唆しているのかもしれません。

 

 私なんかは、八百万の神々信仰と縄文世界で見てしまうのですが、もしかしたら山岸靖司さんの作品は北海道をルーツとした文脈のアートの形なのかもしれません。

 

 現代の定住、蓄え、所有、法、利害社会の呪縛における第六感的センスの喪失に対するカウンターとして、北海道的ルーツのアプローチ(和・東洋と縄文・狩猟)をアートで問いかけていくという事をしてもいいのではないかと思うのです。

 

 山岸靖司さんの作品はいつも霊的な感受性を呼び覚まさせてくれます。

山岸靖司展「しずかなじかん」2019.5.2(木)~2019.5.8(水)@プレミアムスクエア(札幌東急)


山内透展@ギャラリー門馬ANNEX

 DMを拝見して見に行った。無数に連なったタコの吸盤のようなもので出来上がった影。こちらを見て佇む。正面を描いた人物画がとるポーズとは違う存在感。つまりそこに佇む。だから見る者は体感するのだ、encounterを。

 

 いつもどこかでDMを見つけては、極力直感に従って見に行くかどうかを決めている。吉と出るか凶と出るか、そこも含めて楽しむつもりでいる。人がもてはやしたからとか、「評価を獲得している」太鼓判を探し当てたからとかっていう基準で向き合わないようにしている。これをやると自分の五感が錆びる。歳を取って寂ても、感覚は錆びちゃいけない。で、今回は良かった。いいencounterだった。場所はギャラリー門馬ANNEX。

 

 写真は撮っておりませんが、是非とも会場でご覧になってください。ウナギの寝床空間・ANNEXの片側の壁しか使用していない展示である。もう、一枚一枚作品を見ていくだけ。あの空間を立体的に活用している作品展ではないけれど、距離を取ったり寄ったりして作品と対峙する見方に徹する事が出来る。これでいい。「体感」や「encounter」は現代の作品展示でとても重要なキーワードだと考えている。空間を意識して作品群を展示する事で生まれる「体感」ももちろんいい。しかしシンプルに作品と一対一で向き合う中で感じる未知との遭遇感、つまり「encounter」な出会いはなかなか現出するのが難しい。チームラボで感じる体感感覚に負けない現実遭遇感を、壁に掛かった絵を見るという最もありきたりな装置で体現させる事、これを出せるかどうかが本当に重要な事だと思っている。何が言いたいかって、山内透さんの作品にその「encounter」を感じたのである。

 

 詳しい作品説明は言いません。写真も撮っていないし。DMにあるような作品に加えて、人物がはっきり目鼻口をもった作品も登場する。どれも肉筆で、きわきわにおける絵筆の綱渡りだ。狭義のアウトサイダーアートじゃない、彼は美大を出ている。だからきわきわだ。まあ、アウトかインかを決めるライン上のひと悶着なんかどうでもいいのだ。要は狂えるかどうかだ。月並みに聞こえたら残念なのだが。エモいかどうかとでも言おうか。

 

 社会性における批評は?アートだろ?って囁きが聞こえてきそうだが、今回は考察しない。デュシャンの泉によってアートの本質を暴露されて以来カーテンをかけられてきたアート流儀を黙殺して、縄文狩猟の「未知との遭遇」的体感性で見てほしい(まあ、日本のひとたちにはアートを難しいルールじゃなくて、この「体感性」で向き合ってほしいなとは、いつも思っているんだけど)。

 

 なので、問題点も回答もそこから得る価値とかも提示しません。ゆえに今回は批評になっていません。

 

 会場では、出口が入り口なので順番に見た後、折り返して作品を見ていく形になります。この折り返しの作品の並び方が良かった。意図しているのかどうかは分かりませんが、左右の壁を使っていたら実現していなかった。一巡して戻って来ることになるので。

山内透展2019.4.20(土)~4.28(日)@ギャラリー門馬ANNEX