グリッドヒューマン-両極の狭間で-

写楽オマージュで獲得した「存在のリアリティ―」

 東洲斎写楽の大首絵23点をオマージュしたシリーズは、その人物群が放つ「存在のリアリティー」を世に提示するための産物であった。写楽作品が持つ、多様性に展開する存在感は、日本の芸術作品の中でも誠に稀有な特徴である。この存在感が放つビビッドなリアリティーは、テクノロジーの発達により生み出される多様性社会を迎える現代において、特に今一つ他の国に比べて自国の文化整理と編集に疎いこの日本においてとても有効なものであると感じている。この「存在のリアリティー」をファインアートとして現代に意識的に提示するためには、過去のものをそのまま拝借する(例えば、日本の文化を打ち出す場合にいかにも和テイストを強調してしまうようなやり方)のではなく、いかに現代の感覚でアップデートするかにあった。その結晶が写楽オマージュシリーズなのであったが、この獲得した、現代に示す「存在のリアリティー」を受け継ぎながらも、オマージュから脱却し新しいファインアートとして展開していくことを、これからの仕事にすると決めたのである。

 

「存在のリアリティ―」表現の方法論

 では、「存在のリアリティー」を生み出す方法論とは何か?写楽オマージュに取り掛かるにあたり、元絵を変える上で重要なポイントがあった。そしてこれらのポイントには共通した隠された一つのやり口がある。ポイントは3点である。1つ目はサイズを拡大したこと。2つ目は1点物の肉筆絵にしたこと。そして残るは元絵にはない私独特の線描を施しビジュアルの過剰性を強めたということである。これら3点を詳しく見ていくと「両極性」という共通性が潜んでいることがわかる。サイズの拡大は、浮世絵特有の手元閲覧サイズから、空間展示における作品との対峙サイズに変更されたということである。これは脳内で作品世界が広がっていく向き合い方から、場における作品そのものとの遭遇体験に変わる大きな変化であり、向き合い方において対極に舵をきったということである。木版画から肉筆画への変更にも「両極性」は隠れている。肉筆によって、版画には表現できない視覚のビビッドな体感を実現させているのであるが、量産と1点物(ファッションでいうプレタポルテとオートクチュールのような両極性)という二極間の間に張った緊張の糸の上で写楽アップデートは行われた。そして、3点目の線描の過剰性こそが作品の表象に最も強烈な「存在のリアリティ―」を生み出しているのであるが、この線描を構成しているものが、幾何学線と複雑な自由線であり、対極的性質を持った線を同じ画面の上で共存させているわけである。絶対的に相容れない2つの線は緊張を保ちながら画面の中で拮抗し人物達に生々しさを与えている。このように「両極性」(が生み出す緊張)を意識したアプローチにより、写楽オマージュは「存在のリアリティ―」を獲得しているといえるのだ。

 

日本の中の両極性

 さて、この「両極性」は私特有の方法論なのであろうか?であるならば、あまりに特殊なやりかたであるということになる。しかし、過去を紐解けばこの「両極性」は、日本の文化の中で取られてきた方法論として何度となく繰り返されてきたのである。この日本文化の中における「両極性」の方法論の具体例は、松岡正剛氏の著「連塾 方法日本」シリーズに詳しい。軒先に向かうに従って反り上がっていく屋根のフォルムと、純和風の楕円に膨らんだ屋根のフォルムが合わさった「てりむくり」という凹凸の連続は、日本独自の建築デザインとして見られる。「神仏習合」や「真名・仮名」、「和魂洋才」を始め、両極の合わせの中から新しいものを生み出すことを日本人は行ってきたということである。「対極主義」という考えを唱えたのは20世紀を代表するアーティスト・岡本太郎であるが、一人の精神の中にまったく相反する両極のもの(文化であり精神であり、時には人種であり)を共存させ、その間に挟まれながら、相容れぬままにいかに新しい在り方を生み出すかという態度である。クリエイティブなものは常にそういった、まったく対極のものが拮抗するその狭間から生まれるという考えである。彼はそのような精神で縄文土器を、考古学資料という一方的な視点から離れ、芸術作品というファインアートの側から再発見したことは有名である。このように「両極性」という方法は、日本的方法であり、常に創造性を孕んできた。北海道に住む私はこの「両極性」を駆使して、写楽オマージュから一歩進み新しい大首絵を生み出そうと試みる。まさにエドの文化を、日本的な影響が最も薄いエゾでアップデートするという意味でも「両極性」である。

 

北海道・札幌と格子の歪

 北海道の歴史の成り立ちは明治期から始まった和人の開拓による近代化と、それ以前のアイヌによる狩猟生活が営まれる原野の世界であった。つまり縄文時代・擦文時代から近代(明治)にドラスティックな移行を果たした土地である。この両極の狭間に札幌の成り立ちの歴史が顔を覗かせる。札幌の道路は碁盤の目であることはよく知られた事実であるが、完全な直線の交差で出来ているわけではない。場所によっては湾曲した道も存在している。池を迂回して敷かれた道である。この池は札幌が持つ扇状地という地形がもたらした大地の表情である。扇状地特有の、土石流によって堆積した砂礫の中を流れる伏流水が、扇状地の先端で噴き出てくる。アイヌ語でメムと言われる湧き水である。これが近代的合理性を極めた格子状の道路を作る上で、どうにも相容れない対象となったわけである。このような碁盤の目のズレ、格子の歪を見ると、原野と近代の合わせと歪の間から札幌という街が生まれたということがわかる。そしてこのジオメトリックなグリッドラインと、川や土砂や山や平野が生み出す複雑なドローイングは、北海道が持つ一つの「両極性」なのである。エドで生まれた大首絵(浮世絵)というスタイルをエゾでアップデートするにあたり、この「両極性」を合わせ持つ構造を人物群に取り込んだ。幾何学的に構築されたグリッドラインと、複雑で不規則に走るフリーラインが、一人の人間の精神と肉体を構成する。エゾ(北海道)が持つ「両極性」を内包しながら大首絵スタイルの新しい人物群は誕生する。相容れぬ格子と自由線の狭間で自己を確立させようとしながら、二極を集約しきれない緊張感が、描かれた人物たちの背後や前で立ち現れた格子の亀裂や破壊、ゆがみとなって表れるのである。

 

グリッドヒューマン 写楽オマージュ以降に描かれた現代の大首絵シリーズ第一弾「グリッドヒューマン」。彼ら8人は、格子と自由線という「両極性」の間に自らの存在感を露わにした人物たちである。写楽作品が持つ多様性の存在感は、彼のオマージュを制作するにあたって「存在のリアリティ―」にアップデートされた。そしてこの「存在のリアリティ―」を、オマージュから脱却し現代の大首絵として内包させ、現代のファインアートとして現出させる。その重要な手法である「両極性」を、北海道が持つ「両極性」として組み込み、産み落とされた「グリッドヒューマン」。彼らは、これから展開していく現代の大首絵シリーズの扉を叩く8人のスーパーヒューマンたちである。

 

 

GRID HUMAN-In between the two poles-

 

"Reality of existence" expressed in the homage series to Sharaku"

 Fujiya created a tribute series to 23 Sharaku works in order to express "reality of existence".  The diverse presence that appears in Sharaku works is a rare feature among Japanese art works.  This diverse and vivid presence will be an effective theme in the diversity society brought about by digital technology.  And Fujiya attempts to express the "reality of existence" acquired in this homage series in contemporary Okubi-e [close-up portrait Ukiyo-e] by his own creation.  

 

Methodology for expressing "reality of existence"

Then, what is the methodology that creates "reality of existence"?  There are three updates tried in the homage series to Sharaku works in order to create "reality of existence".  The first one is to expand the size.  Okubi-e, which is originally the size you can watch at hand, was changed to the size to be displayed and appreciated in the space.  By doing this, the viewer will encounter in the space with the people drawn in the work.  The second thing is to change from prints to hand paintings.  Unlike prints, lines and colors drawn directly on paper contain vividness.  The third thing is to change the original picture to a more complex and excessive visual using Fujiya's peculiar drawing.  This excess line drawing consists of free lines and geometric lines.  The sence of tension arising from the coexistence of two conflicting lines gives the work a vivid presence.  With these updates, the tribute to Sharaku works has a vivid presence.  And these updates have one thing in common.  It is "bipolar".  The tribute series was placed at the opposite side of a handwriting picture to appreciate in space from the common sense of Okubi-e, which is hand size and prints.  And the one that gives the strongest presence to the representation of the picture is the sense of tension created by the antagonism of the polarities such as the geometric line and the free line.  In other words, this "bipolarity" is a methodology that creates "reality of existence".  

 

"Bipolarity" in Japan

This "bipolarity" is not a special one, it is a methodology often used in Japanese culture.  There is a design of "teri-mukuri" combining the bulging roof as the style of Japan own and the warped roof from China.  Besides. there are "shinbutu-syugou" coexisting Buddhism and Shinto, coexistence of Chinese kanji and Japanese original character found in Japanese.  Famous Japanese artist Taro Okamoto has advocated "opposite extreme principle".  This principle is the attitude of having a conflicting two in the spirit of one human being.  And while suffering between two contradictory spirits, we try to create new ideas and methods.  In accordance with this principle, he rediscovered the Jomon pottery [rope patterned ancient Japanese pottery] not only as an archaeological material but also as a work of art.  Thus, the method of "bipolarity" is a Japanese methodology and has always had creativity.  while using this "bipolarity", Fujiya attempts to update Okubi-e culture [born in Tokyo] in Hokkaido where the influence of Japanese culture is the thinnest.

 

Grid distortion seen in Hokkaido/Sapporo

 "Bipolarity" also exists in the history of Hokkaido where Fujiya lives.  It appears in the distortion of the grid.  In Sapporo, the prefectural capital of Hokkaido, roads are laid out in a checkerboard pattern.  But the roads are curved here and there, not a perfect grid.  Because it was built circumventing ponds.  Sapporo is an alluvial fan.  As a result, the underwater flowing from the mountain springed up in the plain and became ponds.  It was the beginning of the Meiji era [1868~] when grid roads were laid.  Before the Meiji era Hokkaido was the land where the indigenous people Ainu lived hunting.  The settlers who came from the mainland pioneered Hokkaido where the virgin forest grows.  In other words,  Hokkaido is a land that has suddenly moved to the modern era from the Jomon period [the hunting culture era of Japan].  Therefore, the distortion of the grid roads in Sapporo was born between "bipolarity 'modern and ancient' ".  Fujiya attempted to create a new Okubi-e containing "reality of existence" by using this "bipolarity" in Hokkaido and Sapporo.  In other words, new series were drawn by using a grid symbolizing modern rationality and the complicated and irregular free lines created by Hokkaido's land.  The drawn figures exist with a sense of tension between those lines that repel each other.  And this tension is expressed as cracks and distortions appearing in the grid standing in front of and behind grid human.

 

Grid Human

 Grid Human is a modern version of Okubi-e, with the theme of "reality of existence".  They reveal "reality of existence" by creating tension in the Japanese methodology "bipolarity".  This "bipolarity" is the two opposite poles of grid and free line found in Hokkaido/Sapporo.  And above all, in Hokkaido where the influence of Japanese culture is the smallest, Okubi-e, Tokyo's culture, has been updated.  Grid Human questioned what is existing in the diversity society brought about by digital technology.  

 

写楽との遭遇-バラッバラの個性たち-

 数年前に写楽の実寸大で掲載されている画集を手に取った。もちろんそれは写楽との初めての出会いではない。彼は言わずと知れた世界的に有名な絵師である。おそらく葛飾北斎と同じくらい。写楽の役者絵は何かにつけ世間でよく使われる。日本的、歌舞伎のヴィジュアル、粋な風情など。そのイメージは一番有名な大谷鬼次の奴江戸兵をはじめとして世に氾濫している。だからよく知った絵である。きっと日本人はもとより世界の多くの方がそうだと思う。しかし、数年前に写楽の画集を開いたときは自分の肉体に戦慄が走ったのだ。今でも鮮明に覚えている。それはまごうことなき初めての出会いと形容したくなるような写楽大首絵との遭遇であった。

 

 「おいおい! 君たちは一体何者なんだ!」私は画集のページをめくるたびにそう問いかけた。やがて、画集の中盤から終盤にかけて一気にその心の驚愕は消え失せる。私をうろたえさせたのは、写楽初期の大首絵だけであった。その大首絵シリーズだけが異様な存在感を放っていた。そこに描かれている者たちは歌舞伎役者ではなかった。もっと別の、どこか知らない土地の異人種か異惑星の人類種か何かを思わせる集団。歌舞伎役者であるという既成の概念や人物名は私の頭から完全に削除されていた。こんなに有名で万人に見つくされたイメージの中にまったく新しい別の存在を見てしまうことがあるものなのかとその時は驚いた。

 

 ニーチェという近代の哲学者がいる。彼が独創性というものについてこのように語っている。「独創性とは何か。万人の目の前にありながら、まだ名前を持たず、まだ呼ばれたことのないものを見る事である。」独創的であること。これは絵を描くことにおいて最も重要な要素であると私は思って画業に取り組んできた。その独創性とは未知のものを描くことであり、他のどの画家も描かなかった表象をメディアに表すことだと思ってきた。しかし、写楽との出会いがその考え方を変えてしまった。ニーチェが言葉に残したように最も世に溢れたイメージから全く新しい形容しがたい存在を見てしまったのだ。写楽おそるべしである。

 

 現代の絵師として心に火が付かないはずはない。素性がほとんど分からないといわれている写楽という絵師の懐に入り込んでみたいというモチベーションが沸き上がった。そこで、これまでオリジナルにこだわってきた自己を否定して写楽オマージュに取り組んだのである。写楽大首絵単体描写23体を自分のセンスによるドローイングで描き変えた。自分が感じた写楽大首絵に宿る、まだ素性を特定されていない虚構性を増幅させることが出来ればと思っていた。23体描き終えても写楽という絵師の本質は以前霧隠れのままであったが、大首絵の人物たちとは生々しいインタラクティブな会話をしたと思っている。

 

 写楽の大首絵人物群は表情豊かである。顔は以上にでかく手は妙にいびつである。しかし他の絵師の大首絵に見られるような様式美的な綺麗さとは全く違う魅力を放っている。ここに例えば「個性」という性質を見ることが出来る。しかし、ここでいう「個性」とは自分らしさ・自分にしかないもの・他者とは区別される固有性といった、おそらく一般的に認識されている性質ではない。写楽の人物群に感じたもの、そして自分がオマージュで表現したかったものとは何か。それは、それぞれの人物が各々のモチベーションで勝手気ままにあろうとする姿である。決してそこには他と区別される自分にしかない死守すべき特性といった所を拠り所にした個性なるものではない。他者と区別を図って勝ち取る自分らしさではなく、こうやりたいこうしたいと思うがままに振る舞う果てに立ち現われるその人の存在感といったものだ。科学的というか理屈で自分と他者、人間と機械、有機物と無機物といった二分法の概念を明確に区別する思考ではない。もっと自然に発生してくる存在感とでもいうか、内在するリアリティといった感じだろうか。私がオマージュして登場させた人物群は皆一様に派手ないでたちである。その均質性の故に突出したビジュアル的個性というものは実はない。しかし、皆それぞれ思い思いの振る舞いをしている。一体何目的でそのような体裁をしているのか。モチベーションのベクトルはバラバラだ。つまり、共通の理想を共有してその一点に近づくために競争激しく個を確立するといった態度はない。そうではなく存在の多様性である。写楽の大首絵にはそういう、気負いのない個性が宿っている。それが私が数年前に写楽の画集を開いて遭遇したリアリズムであった。

 スマホは現代人の生活インフラだ。あらゆることを可能にしてくれる。例えばの話。スマホの改良の果てに、究極的にはスマホを持たなくてもよくなったらどうなるか?どこまでも小さく軽量化されるのではない。なくなるのだ。であるならどう代用されるのか?それは我々人間がスマホになるのだ。もしそうなったと仮定したらどうだろう。誰もがスーパーヒューマンである。テレパシーがメールや電話の代わりになるのか、はたまた街中どこでもデバイスいらずでインターネットである。そんな未来人に技能や身体的差異の固有性というものはなくなるのではないか。均質化された人間性の中でとる行動とは、もはやそれぞれがスキルインフラを生かして思い思いにモチベーションが上がる方向へ何かを実行していくことである。これこそが多様性である。

 

 写楽大首絵はそんな多様性社会における存在のリアリティを宿している。まるで八百万のなんとやらだ。みんなバラバラで一つの基準に即した役回り・キャラの当てはめはない。

 

 東洲斎写楽。その存在の謎感とは裏腹に作品はビビッドだ!

 

ー現代の絵師・藤谷康晴akaドローイングマン

多様性とスペシャリスト

文脈をもった私たち

 インターネット上で繋がり、SNSなどのプラットフォームで大小さまざまな規模のコミュニティが生み出されています。かつてマスメディアが唯一の情報提供者であり、全員が同じ方向を向き同じ情報を共有し同じ価値の下で生きてきました。その唯一の価値に合わなければその人は負け組となってしまうような競争社会でした。しかしコミュニティの多様性により、誰もがそれぞれのコミュニティで自分の強みを活用し生きる事へのモチベーションを維持しています。もはや全員が同じ情報や価値を見てはいません。スマホを介して見ているものは皆バラバラで属している社会もそれぞれ違うのです。

 唯一絶対の価値基準がないという事は、人は必ずしも全員が競争相手ではなくなります。小さなコミュニティの中で他に変えが効かないポジションを獲得すればいいのです。そしてその獲得行為は他の候補者との争いの中で起こる事ではなく、それぞれが適材適所で輝かしい活躍を果たすという社会を生み出すための行為なのです。世界には国や人種、マスを対象にした価値観といったものだけで境界線を引いているわけではありません。そういった振り分けを超えた無数のコミュニティが地球上に存在しているのです。つまりそれだけの数の価値基準に対する信仰が人類の生きるモチベーションを生み出しているわけです。

 こういった無数のコミュニティをまるでローカルな場と捉えるならば、世界70億を相手にする事はグローバルな舞台かもしれません。例えばローカルコミュニティで自分の専門性を深く深く掘り下げて世界観を作り上げ、そこから重要な部分(本質的な部分)を抽出し、もっと不特定多数の人に理解されやすくなるような仕様に変換すれば70億相手のグローバルな舞台で自分を認めさせることが可能になるのではと思います。70億人全員を相手にするという意味ではなく、世界には自分に対する潜在的理解者があちらこちらに存在している可能性があるわけです。ですから、まだ見ぬ彼らに向けてどうアプローチするかという事です。そのようにして自分のファン・理解者を増やしていけばそれ相当の規模の活躍の場が生まれるわけです。それはビジネスとしても成立するぐらいの規模でもあるでしょう。

 このようにして、いかに自分の専門性を突き詰められるかがこれからの社会を生きていく上で大変重要なカギになっていくはずです。つまりバカになるまで専門性を極められるかです。それが誰にも深められたことのないレアなものであればあるほど有効性があるでしょう。なんでも平均より上のレベルでやりこなせてしまうようなホワイトカラーのような人はあまり価値がなくなってくると思います。例えばそれはAIにとって代わられるような大変危うい能力です。物事はスペシャリストの集団で成し遂げられていくでしょう。ここには、一人のカリスマではなく多くの人間の所業によって物事は成り立っているのだというロジックが隠されています。もうマスメディア上で超有名になったカリスマだけが絶対的価値ではないのです。カリスマとそれ以外はそのフォロワーという二分した構図で我々の社会は成り立っていません。

 自分自身の文脈をいかに作れるか、それを小さいコミュニティとして世の中に認めさせる事、やがてはそこから世界仕様でアピールしていく…これはアートの分野においても言える事です。文脈の多様性により、アートはやがて一部の人間だけが楽しむ文脈のゲームから解き放たれて、もっと人間の感動(審美的感知)に訴えるようなメディアとして向き合うようになり、ついには人間と一体化してしまうのではないかなどと思うのです。アートという概念なんかいらなくなるかも…。

 

ー藤谷康晴・ドローイングマン

フェイクタウンフィジカルグラフィティに想像する未来

 2017年が明けて一か月。今という時間が時代の最前線である。私が生まれた1981年から36年が経つが、ここから見える風景はほとんど変わり映えがない。そんな景色の中で今も変わらず立ち続けている者がいる。灰色の案山子。電信柱だ。柱も電線も地中に埋められて視界が開けた風景は未だやってこない。子供のころはよくこいつに隠れたり落書きしたりしたものだ。無邪気に遊んでいた。電柱のことを一個の他者として意識するわけでもなく、都合よく使ってはしゃいでいたわけだ。子供は遊びの天才。しかしある時からこの仏頂面の棒さんを実存の物体として意識するようになった。自分自身と社会を意識するようになった頃と時を同じくする。なぜお前はそこにいるのか?そこに突っ立っているのか?札幌のどこへ行っても存在し、国内のほかの土地に行ってもその風景は変わらない。もちろん送電線を渡す役目を負っていることは分かっているが、その目的以上に地面に刺さる姿そのものに電柱の存在のすべてを見るようだ。彼らはもはや日本の都市の風景に相応しい役者であり、彼らこそ私たちの生活圏の住人なのだ。時として想像することがある。ある別の惑星に移住し、そこからかつて生活していた青い星の土地のことを思い出す。あの町の生活風景を。その景色の匂いや色、形といった記憶を呼び起こすシンボルとして心の中心に一本の電柱が屹立している。それぐらいこの電柱とやらは私の心象風景のようなものとして大きな存在を占めている。2017年今現在も送電線が空を覆う世界の底辺で活動し生きている。だが今は電柱に隠れて無邪気に遊ぶ子供ではない。無数の電気信号が空気中を埋め尽くす密度で飛び交う世界を、目線を急がせながらうまく立ち回る狂った歌舞伎役者のごとくである。テクノロジーは世界を前へ前へと推し進めていく。

 

 人類の手によって誕生したロボットが人間のように自我に目覚め感情を持つようになり、やがて自らの自由を獲得するために人類に抵抗し、果てには人類はロボットに支配されてしまう…。このような近未来世界の最後が数多の小説やら漫画やら映画などで描かれてきた。昨今、人工知能が一種のムーブメントを起こしている。深層学習で人間のように複数の事・作業を行える汎用AIが生まれ、それを搭載されたロボットがいずれ誕生するであろうといわれている。人工知能が人間の能力を超える一つの到達点であるシンギュラリティ(技術的特異点)が2045年には訪れるといった考察も出ている。テクノロジーの門外漢である私にはこの予測がどれだけの信憑性を秘めているのかは判るはずもない。がしかし、これから先このテクノロジーの進化は確実にその一点に向かって線を描いていくことになるはずだ。第一次産業革命からテクノロジーの発展が途中で止まることはなかった。あらゆる批判、懸念、負の側面を議論されながらもそれは着実に進歩し我々の生活の中にイノベーションを起こしてきた。果たして汎用AIロボットが人類を破滅へと導く未来がやって来るのか、それとも人知を超えた知能は人間と手を取り合って豊かな未来を描き出すのであろうか。

 

 多くのロボットが様々な分野の仕事に参入されるようになると、我々の仕事は奪われやがて多くの人々が失業することになる。ロボットが人間にとって代わることで仕事は効率化し、ロボットの維持費が人件費を下回れば経費削減にもなる。分野によってはより高い安全性も確保される(完全自動運転車の方が人間の運転より事故発生率が少ない)。人工知能に仕事をとって変わられた我々はどうすればいいのか?ベーシックインカム(政府がすべての国民に対して最低限の生活に必要なお金を無条件で支給する制度)が導入されこの問題は解決するであろうといわれている。一方でブロックチェーンが我々の生活のプライバシーを守り生活のコストを削減させるといわれてる。物事のやり取りにおいて、情報を管理し信用を保証する仲介としての第三者が必要でなくなるこのブロックチェーンという仕組みが、個人対個人の直接のやり取りを可能にさせる。そうなると間に入る存在に個人情報を提供する必要がなくなりプライバシーは守られ、かつ例えば仮想通貨のような手数料がほとんどかからないやり取りが世界中で可能となる。このように我々の生活スタイルは大きく変わり、労働時間が大幅に削減されるとその分だけ多くの自由な時間が生まれるだろうと目論まれている。さて我々はこの時間をどう生きるのか?

 

 人は自分の尊厳が保たれて初めて生きている喜びを得る生き物だと思う。例えば先に述べたようにベーシックインカムが最低限の生活を保証したとして、我々はここに一つの保険を獲得する。つまり、より多くの人が多少ともリスクのあるやりたいことを行動に移すことが容易になる。例え失敗しても最低限の生活は保障されているわけだ。頭の片隅に宿している密かな企て、平凡な生活を送りながらもひっそりと夢見る風景・未来・誰かの役に立ちたいという気持ちetc…。やりたいことがない、夢は特にないと人前で言っている人でも必ず何かしらの想像・妄想をして夢見たことはあるはずだ。ほとんどの人が実現するはずがないと鼻で笑って忘れ去ろうとする。みな生活することで精いっぱいだ。しかし、どんなバカげた夢や企みも行動に移してみる価値はある。やりたいこととは将来就く仕事の種類のことではない。この目で見てみたい夢のことなのだ。そんな行動力をより前向きに起こさせる環境が生まれるであろう。個人同士が直に関わり、企画遂行の資金などは共感・信用を生めば誰かが出資する(今現在だってクラウドファンディングがすでに方々で行われている)。夢を実現する上での一つ一つの専門的スキルがなければそれを可能とする人を誘えばよい。こうやって個人個人が連携して、今まで墓場まで持っていこうとしていた無名の我々の突拍子もなかったりするような夢が実現することは大いにあり得る。それが当たり前になる。誰もが企画者になり得るわけだ。少なからぬ共感者を巻き込み実現されればそれは当事者にとって生きる喜びであり、尊厳の獲得になる。ロボットが人間の仕事を代行し、人間に多くの時間がもたらされ、我々はこの時間を人間の尊厳・生きがいを取り戻すことに充てるのだ。産業が発達する前、人間は自然界のあらゆるものに神秘性を見出し、畏れながらも感動し知性で交流していた。その原初的人間の生き様・生きている喜び、つまりは生に対する祝祭を、産業が発達した先のテクノロジーが人類に再びもたらしてくれるという現象が起こり得るのではないかという一つの希望のようなものを私は未来への思いに灯している。みんながそれぞれ自発的に生きがいを求め行動し祝祭を謳歌しようとするとき、アート・芸術といわれる正体不明の怪物はその姿を詳らかにされ、誰もがそれと向き合っていることだろう。もはやそうなるとアートいう言葉は消滅しているのかもしれない。

 

 2017年、私は電気信号が無数に飛び交う中をよろめき見栄を切りながらも、電柱越しにフェイクタウンというマモノたちがはしゃぎまわる祝際にあふれた町の蜃気楼を夢見ている。そう、今はまだ幻のフェイクタウンフィジカルグラフィティを。

 

 ー2017年1月 ドローイングマン

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フェイクタウンフィジカルグラフィティ第5景:祝祭

 何やらいつもの通りがざわざわし出してきた。あちらこちらから人々が現れる。みな一つの場所に向かっている。それぞれお弁当を風呂敷で包んで持ってきたり、手ぶらでモバイルデバイスだけポケットに入れてきたり。お気に入りの服でやって来る人もいるし、大好きなぬいぐるみを大事に抱えながら現れる子供もいる。誰もが思い思いの形で今日のこの時間を過ごそうとしている。一つだけみんなに共通しているのは、そわそわとした期待と興奮で顔がどことなく笑顔なのだ。

 フェイクタウンの表通りは逢魔が時。オレンジ色と紫色の譲り合いが生む特別な時間の空には、寝床に帰ろうとするカラスが黒いシルエットを揺らめかしている。カラスの退場と入れ替わるようにフェイクタウンのマモノたちがわさわさと集まってくる。普段はひょうひょうとしていたり、いたずら好きだったり、われ関せずであったり、泣いていたり、怒っていたり、まったくもって好き勝手に生活しているマモノたちである。しかし彼らもまた今日はみなうきうきとした表情を体全体から醸し出しているようだ。

 表通りとはいってもそこは民家も立ち並ぶ住宅街。そんな空間に人もマモノも集まって来る。民家の窓から顔を出す人もにやにやしている。そして、集まってきた者たちはもういつものことで分かっているかのように、その場に座り込んだり、持ってきた椅子に腰かけたり、通りの向こうのブロック塀の上で並んで座って陣取る人もいる。道路の上も人々で占拠状態。マモノたちもしかり。そして彼らが集まっている場所の中心となる大きな民家のブロック塀の中に屋外照明が当たりだす。その民家の外壁に備わっている投光器も点灯する。スポットライトの中心にみんなの期待に満ちた視線が集中する。マモノたちは見切り発車で踊り始める。

 やがて、楽器を抱えた一団がブロック塀の中に現れる。みな待ちに待っていましたと拍手を送る。演奏者たちは体全体に投影された服を纏う。あらゆるデザインの服を自分の体に映して着用できるウェアラブルプロジェクターを持っているためだ。そのため登場した演奏者たちはひときわ輝いている。コーラスの子供たち、そしてAIロボットの歌い手も現れなかなかの大所帯。それぞれ定位置に付く。そして取り立てて挨拶もなく音楽が鳴り始めた。ホストなんかいらない。逢魔が時が生み出す情景や集まって来る道のり、スポットライト…全てが幕開けまでの前振り。

 

 フェイクタウンの一角は煌々と明かりが灯り、マモノたちは思い思いに舞い、音符と歌声が集まった人々の隙間を埋めていく。

 今を生きていることへの祝祭。フェイクタウンフィジカルグラフィティ。

 

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フェイクタウンフィジカルグラフィティ第4景:Happy Feeling

 でもメゲナイ。また次がアル。だからクヨクヨシナイ。悩まない。悩んでる暇はナイ。時間はナイ。次はあの人をフォローしよう!その人はあの人をフォローしていて、あの人は彼をフォローし彼は彼女をフォローして。そしてどこからか僕の元にフォローが届く。僕はその人をフォローする。その人の事はよく知らない。でもフォローで返してあげる。そして気が付いたらフォローが一つ消えてる。まあイイサ。

 さあ!町に出よう。いいですね!イイですね。その風景いいですね!あっ、その笑顔ハッピーな感じイイですね!その紅いボトムスお似合いですね!町中ハートがあちこちに現れては消え、消えては現れる。スカイブルーに映えるハッピーの雨!いいですね!共感のパルスが飛び交う。だから傘は必携!紅いアンブレラ!その傘の真上で鳴る雨音のリズムと歩調をシンクロナイズドさせて、出会う人やモノと相合傘で写真を撮る!気軽にとる。どう!お似合いですか?どうですか?うん!なんかいいね!

 だぁっ!通りの曲がり角から黒光りのマモノ。デカイ!グロイ!エグイ!ぐえっ!見なかったことにしたい!でもサケラレナイ!じーっとミツメル。ミツメル。ミツメル。この場を一瞬の時間としてやり過ごしたい。逃げ切りたい。あっ!ブロック塀の上に女の子が一人。女の子の頭上、フッと宙に浮かんだフォローマーク。瞬間、力んだ全身がシボンデイク。なんかウラヤマシク。マモノとガールの組み合わせ。嫉妬する。二人がこちらに振り向く。すかさず二人にフォローする。女の子とマモノはダウンタウンの方向に向かって歩き去っていった。

 黄色い消火栓をフォロー。紅い郵便ポストをフォロー。青い草原をフォロー。灰色の電信柱をフォロー。電信柱に張り付いている紅いマモノにもフォロー。暗い謎の洞穴をフォロー。空飛ぶドローンをフォロー。そのドローンがドローイングしてるマモノもついでにフォロー。そして僕も紅いバスに乗ってダウンタウンへ繰り出そう!さっきの黒いマモノと女の子が向かった方に付いていこう!

  

 ダウンタウン行きの紅いバスはアップタウンを走り去っていく。

 空は水色。空中にマモノたちの吹き出しがこだまする。

 フェイクタウンの一日が始まる。

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フェイクタウンフィジカルグラフィティ 第3景:FLORA

  FLORAはまるでマネキン人形のような涼しい顔で成長していく。DOWNTOWNの質実剛健なビルディングの男たちを尻目に神の領域へと向かおうとして。このクールな女はUPTOWNの一角に鎮座し、いつも冷たく微笑んでいる。

 FLORAは花の形をしたロボットである。AIが搭載された現代のファムファタル。目的は宇宙へと手を伸ばすこと。花びらの中から幹のようなものを複数伸ばし天へと向かわせていく。ロケットやスペースシャトルではない。地球上にありながら宇宙区間へと手を伸ばしていくわけであるから、地球と宇宙を繋ぐロープのようなものを創造しようとしている。この手は成長に際限がない。宇宙の星々と文字通り繋がり、宇宙ステーションとも繋がり、この幹伝いに様々なものを輸送することが可能となる。FLORAの線は母なるコスモスとのへその緒であり、宇宙で働く者の命綱でもある。

 この美しく気高い女にはもう一つ別の目的が刷り込まれている。どこまでも高く高く伸び上がって世界中の名だたる建築物を追い越そうという目論見である。これは先日すでに世界一の高さを誇るビルを抜いてしまい目的は達成されてしまった。今はこのFLORAが建築物として認められるかどうかでギネスブックを更新する期待と批判の論争を巻き起こしている。

 巷に散らばる批判の一つ一つは、FLORAが1㎝ずつ成長を更新する度にすぅっと消えていく。FLORA開発者は世間の批判には取り合わない。この麗しき女の一歩一歩ごとの微笑の前に雲散霧消するであろうと思っている。FLORAは民間企業によって開発されている。この開発事業の本拠地はUPTOWN。クラウドファンディングで資金が調達され、様々な分野の活動家たちの協力のもと運営されている。FLORAのお蔭でこのUPTOWNは世界の注目の的になっていて、夜になると彼女はネオンで輝き一筋の美しいラインを垂直に描く。ネオンの海に聳え立つDOWNTOWNの高層ビル群の窓から眺める一筋の光。羨望と期待と嫉妬と夢の視線を一身に浴びながらFLORAはどこまでもクールに駆け上がっていく。

 人類は常に上を目指そうとする。重力から解放されんとするためか?神に近づこうとするためか?今一人の女が彼方のスカイスクレイパーの蜃気楼を舞台背景に、高みから差し伸べられた神の右手を掴もうとしている。フェイクタウンのはるか上空で、FLORAは愛と情熱のダンスを神と踊るのか…それとも21世紀のバベルの塔になってしまうのか…。

 

 夢と危うさを纏った孤高のヒロイン。ストーリーはドキドキするクライマックスへ。

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フェイクタウンフィジカルグラフィティ                           第2景:ビッグフィッシュ

弟子「この町で一番偉い人は誰なんでしょう?」

師匠「それはあのお方だなぁ」

弟子「町長さんですか?」

師匠「ふふ…それは表向きではな。しかしあの町長でも頭が上がらない者がいるんだよ」

弟子「ははぁ、裏の顔役ってやつですね」

師匠「裏といっても、お天道様のもとに堂々と全身で風を切って町中を闊歩しておられるよ」

弟子「じゃあ、僕らもどこかでお目にかかっているのですか?」

師匠「ふふ…みあ~げてごらん~よぞら~のほ~しを~♪」

弟子「師匠、今は昼間ですけど…あっ!もしかしてあの黒い巨大な魚のようなやつですか?青い空をまるで海のようにスイスイ泳い

   でる」

師匠「その通り。あのお方はビッグフィッシュ。あのお方の体は全て我楽多で出来ているんだよ。地上に散乱している大小さまざま

   な我楽多を磁石のように吸収して自らの体を大きくしていくんだ」

弟子「では、あの方の体はどんどん大きくなっていくばかりなんですか?」

師匠「そう、お蔭さまで人間が生み出した地上の我楽多はほとんど吸い上げられて見ての通りきれいさっぱりというわけさ。放射 

   線を纏った物質まで拾い上げてくれるからねぇ」

弟子「しかし、そうなるとあの方は際限なく大きくなって、仕舞には町の空を覆い隠してしまうのではないですか?昼間がなくなっ

   てしまう。それこそ、みあ~げて~ごらん~よぞら~のく~ずよ~♪」

師匠「ところがそうはならんのだよ。ある程度巨大に膨れ上がったらあの方は大気圏を超えて宇宙の彼方へと旅立たれることになる

   。そして宇宙空間で我楽多は空中分解し、あの方の心臓つまりビッグフィッシュコアだけがこの母なる地球に舞い戻って来ら

   れる。やがて再び地上の我楽多収集に従事なされるというわけなのだよ」

弟子「まさに人類の叡智を結集して生み出された最先端テクノロジー。ビッグフィッシュイノベーション!」

 

   がらくたを あつめてこえる ビッグフィッシュ

         よぞらのほしに じかいをうつして

 

 そう吟じると弟子はモバイル端末の師匠アプリを閉じ、カバンの中から画材を取り出してフェイクタウンから依頼された壁画の制作に取りかかるのであった。

 

       

 

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フェイクタウンフィジカルグラフィティ 第1景:電柱のまもの

 夢から覚めたら藤谷康晴は電信柱の上にいたのである。正確には電信柱のてっぺんではなく側面にしがみついていたという体である。⁉という違和感と同時に、いやそんな疑問が訪れるよりも速く、体は電柱上の居住まいにフィットして無意識の納得感が藤谷康晴の体を支配した。重力をほとんど感じないその感覚は小さい頃太っちょであまり木登りは得意でなかった藤谷康晴にとって不思議なほどに居心地が良い。這いつくばった状態から見える風景は硬質な灰色の壁。外界を把握するにはあまりに不都合な体勢であるが、左右に首を振ってみればそこには見知った風景が広がっていた。毎日見る近所の家や精神病院、最後となってしまった雪捨て場の空き地、そして自分の家。という事は、自分は今我が家の斜め向かいの電柱にいるという推理がなされ、藤谷康晴は初めて状況を把握するに至った。

 とりあえず上に行く。藤谷康晴には上下運動しか許されないわけで、何のためらいもなく電信柱を登り始めた。何のためらいもないとは地上に降りるという選択肢を即座に捨てたという事である。体の自由が待っている下界は恐怖の対象として認識したのである。どうやら電柱にしか住めない生き物になってしまったようである。電柱の上から見渡す世界は長年暮らした住宅街の風景を新鮮なものに変えるに十分なものであった。これが自分の新しい世界、まるでコインの表を裏に返しただけのような反転装置の軽妙さに不思議な感動を覚え藤谷康晴はポツリと涙した。ふやけた視界の片隅に近所の小学生の子供が映る。少年は藤谷康晴と目が合い一瞥を喰らわして走り去ってしまった。どうやらこの反転したオルタナティブ・マイ住宅街では今の自分は当たり前の存在としてあるらしい。自分は電柱の生き物なのだとこの時藤谷康晴は悟ったのである。

 そして運動のベクトルは横軸へと広がりを見せる。左右に広がる電線の右側にはカラスが一羽止まっている。藤谷康晴が勤めている食肉加工場の残渣廃棄場に群がり、食い扶持を狙うあの黒い鳥。首をカクカクさせながら自分を見つめてくるこのカラスに対し、藤谷康晴は人間の時には決して感じたことのなかった対等な敵対心を抱き始めた。この無用であろう対抗心で藤谷康晴は細い電線の上をカラスに向かって軽業師のごとくすたすたと歩き始める。無益なケンカの幕が上がるかその瞬間、一羽の可愛げなスズメが藤谷康晴とカクカクカラスの間に降り立つ。一本の黒い線、その上に等間隔の三つの点、黒い線の両端に直角に降り立つ二本の太い線・電柱。その電柱の片一方の足元には民家から集約された消費の創造物・燃えるゴミ。たかる野良猫。カクカクカラスは藤谷康晴に対する興味を失い直線的に燃えるゴミへ急降下、野良猫がミギャアァァァーッと鳴く。下界の騒々しいケンカの上空、じりじりと照りつく太陽の光に照らされた電線の上のシルエットは一つ。藤谷康晴はスズメを捕まえて丸のみしていた。スズメを捕食する電信柱を住みかとする生き物に生まれ変わっていたのであった。

 そして電柱のまものは電線伝いに電信柱から電信柱へと同じ仲間を探すために渡り去っていった…そう、心の接続を求めて。電気信号上の孤独。そこはフェイクタウン。

 

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フェイクタウンフィジカルグラフィティ 0景(序)

0景(序)

 フェイスブックの友達の友達の友達辺りまで辿ればその所在が突き止められるっていう町。フェイクタウン。電子空間ではこの町がきっと地球のどこかにあるに違いないって噂が持ち切りだ。あることないこと、盛ったり削ったり好き勝手に装飾されてその町の風景はネット上で展開されている。ツイッターで町伝説が囁かれ、インスタグラムではどこかにある実在の町の写真をフェイクタウンと偽って投稿されることが度々。にわかに騒ぎ始めたころは所在を突き止めることに皆が躍起になっていたが、今ではいかにそれっぽい投稿をするかで競い合っている。「いいね」、「like」の数が得点のホットな人類の遊びだ。

 

 では具体的にどんな噂が広がっているかって…それはもう千差万別。例えを挙げればキリがない。それでも一つ特徴を挙げるならば総じてみな奇妙で不可思議な世界を妄想している。見たこともないような生き物が住んでいるんだと想像する者たち。言葉で形容したり絵に描いて投稿したり、行きすぎた強者はリアルに奇怪な物体を現代アートみたいに作り上げそれをどこかの町に忍ばせてスマートフォンでフェイクタウンを切り取って見せる。いやいや、フェイクタウンってのは毎日仕事もせずに遊びほうけた者たちが住んでいる世界なんだと365日宴会みたいにわいわい騒がしい風景を想像する者たち。万年百鬼夜行の町。そして街ではなくもっと規模の小さい空間をイメージしてい風。大都市ではない郊外の風景にフェイクタウンを投影する。そこにリアリティを感じている。世界中どこでもアップタウンはダウンタウンのような華美な偽りを纏わないリアリスティックな不穏さを孕んでいるものだ。また、映画のセットのように精巧に作られた無人の町を思い描く者たちも多くいる。フェイクタウンという名前からの連想そのままという気がしないでもないが。しかし、こういった風景は実際にあったりするもので、SNSで写真を投稿してもどこかの誰かがその景色の借用を突き止め仕舞には炎上する。そんなフェイクタウンのイメージは様々に創作され世界中を仮想空間経由で飛び交い魔的な価値を内包させる。中にはフェイクタウンへ通ずる扉の鍵なるものを特殊素材を使い異様な大きさで工作し、それをネット上で公表すると話題沸騰・ファンが急増し、どこかの国で企業を経営している社長が話題作りで買ったとかどうとか、そして話は膨らみ今ではその社長の元からビットコインで取引されて誰か他のところにこの聖なる鍵は渡り歩いていると噂されている。こういったフェイクタウンが生んだサイドストーリーも後を絶たない。

 

 誰が流行らせたのか、本当にリアルワールドに存在しているのか…突き止めた者はいない。故のフェイクタウンと明快な着地を決めるフェイクタウン。見えない風景というリアリティに生きる私たち。どこまでも翻弄されてそれでもなお掌握したい「ふぇいくたうん」。

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