朝地信介展 「キズは、癒える」@ギャラリーレタラ

 近頃、道路の穴ぼこが目立つようになってきた。あれだけ降り積もっていた雪も、排雪がまだ入っていない枝道は別にして、だいぶ融けている。この穴ぼこ君たちは、ドライバーからすれば非常にやっかいな連中で、豪雪からやっと解放されたのも束の間、まだまだ神経を使う走行が続くのである。あちらこちらと出現するこの穴に苛まされながら過ごし続ける中で、ふと、この道のここら辺りにあったはずのあの忌々しい穴ぼこがなくなっている事に気づくものだ。いつの間にか修復工事がなされたわけだ。舗装工事現場を目撃しないうちに平らになった道路面を見ると、「いつの間にか」という時間の経過を体感する。修復という営みが視覚情報として抜け落ちて、穴の後に平らという流れで受け取るのである。この連続性を欠いた非連続な時間のフローが、「いつの間」という時間の存在を穴と平の間に連想させる。この「いつの間」には、膨大な流れの時間経過感覚と、何者かによる何らかの営みを投影させうる。舗装現場を目撃していないがゆえに、穴と平の間に他者の営みを読むのだ。こういった「いつの間にか」や「知らないうちに」といった認知と認知の空隙を持つことは、けっこう大事なのではないか。自分自身が所属しているのとは違う世界や、他者による営みの存在をぼわっとそしてじっくりと理解するようになる。

 

 そして朝地信介展「キズは、癒える」である。「キズは」の後に読点である。「傷は癒える」ではないのだ。必ずしも人が体や心に持っている「傷」とは限定しえないカタカナの「キズ」であり、この「キズ」の後に続く「、」が少しばかりの間を作っておいて「癒える」で受け止める。そうだ、この読点は「いつの間にか」や「知らないうちに」の「、」なのだ。ここの読点に投影される時間と営みが、朝地信介作品展の主題なのだ。

 

 微生物やら何やらが行う営みで刻々と変化する物質の表象を見ているような、そんな風に思わせる作品たちが展示されていた。穴やひび、形の隆起や色の違いなどが作品表面に現れている。その表面の場所場所で表情が違うと、それぞれ別の営みが行われているように思えるし、それらが一連の運動過程のそれぞれの段階を表すならば時間の経過を想起させもする。ポリスチレンフォームを三枚重ねて削っていったという「跡/sign」という作品は、まさに穿たれた深さが時間の経過を表しているようだ。作品「地の皮膚片」は猟師が捕ってきた何かの獣の皮か、はたまた深海魚の皮膚か。いや異惑星の地表かもしれない。いずれにしてもそこでは数多の種類の存在によるひっきりなしの営みと、その結果から現れる表情の変化を見ているかのようである。見知らぬ獣や深海魚の皮膚には寄生虫やらウイルスやらが蠢いていて、そこに雨風などの外圧や外敵の攻撃といった力も加わり、それらに時間が掛け合わされる。そうやって世界は流転しているのかもしれない。私自身という者などはその無限のフィールドに起こる些細な運動の一つに過ぎない。

 

 全ては過程である。始まりと終りは恣意的に切り取った、無限の運動の中における一部と一部であり、その始まりにはそこに行きつくまでの話があったのであり、その終わりには当然先がある。始まりと終わりを決めるから物語が生まれるのであり、主役が出来上がるのである。その主役に注目すれば因果が完結し、それでいいと思ってしまう。本来、その物語というものは鎖の輪の一つに過ぎない。

 

 だからきっと「キズは、癒える」という文には、続きがあるのだ。

 

2022. 03. 22

 

朝地信介展「キズは、癒える」

2022. 2.26-3.20

@ギャラリーレタラ